第264号




謹賀新年今年もよろしくお願いします

年の初めに
 ここ数年各メディアで景気の芳しくない話が目につく。その上、今年はイラクへ向かって戦争前夜である。近藤氏の説によると末節が暗い。だが、暗くしてはいけないといわれる。
 先ず「夢」を
 昨今、最も明るい話はノーベル賞の小柴博士、田中氏のノーベル賞である。ノーベル賞の授賞式がこれだけ報道されたこともなかった。受賞の内容は実験によって結果を導き出す方法で日本人が不得意としていた基礎的学問だった。まだまだ、ノーベル賞候補は日本にいるという。こうした潜在的学問技術に自信を持っていこうではないか。昨年末の私どもの「権大僧正親授式」の折、資延敏雄高野山管長・座主猊下は「夢を持て・・」と説諭された。相手は私たちが一番若く、八十歳近いものいるなかに向かってである。若いときから「日本の」という考えてこられ、敗戦というご体験は誰よりも強かった。それからの戦後復興を見てこられた猊下は今の混乱のなか老若を問わず「夢」持ってすすめとのお言葉だった。
 二、昨年提言した「日本人のこころ」の実践を
 今、日本人は「どうしていいか分からない症候群」に陥っている。モラル即ち倫理観を西洋的倫理観に求めても根無し草、砂上の楼閣だ。それはキリスト教の基盤がないからだ。私たちは宇宙・大自然を慈しみ、ともに生き、生かされていることを何となく分かっている。ブッシュさんがニューヨークのあの事件のあと「正義か、さもなければ悪魔のなせる技か・・」といって正義につくよう演説した。佛教徒には中庸があることも知らずに。私たちは今から先祖から身体に染みついたもののなかで倫理観を探すべきである。昨年本誌に梅原猛先生の佛教の「精進」「禅定」正語」「忍辱」即ち「コツコツやる」「集中力を養う」「正直であれ」「恥ずかしみに耐えろ」と四つの徳目を基本にして、倫理観の基盤に十善戒を説いた。私の父は明治生まれ、その影響で多くの明治人と接してきた。彼らは一本筋が通った日本人として内外で評価されてきた。彼らの基盤は先にあげたものだった。経済は素人の私だが、グローバルスタンダード(世界基準)という名のもとに弱肉強食、やらずぼったくり、ハイエナファンドが横行してくる。これら明治の諸賢は決してしなかったことではないか。
三、「日本」の危機管理考えよう。
 先ほど高野山座主猊下は日本或いは日本人というところでものを考えておられる話をした。我々もこの際猊下の真似をしてみようではないか。子供が親に○○してくれないと「人前で泣いたる」「おう泣け」「おもちゃ買え」おもちゃがナイフ買えとなる。今度は「向こうから来る人をこのナイフで斬りつけたる」親ははじめはほっておけても、これは相手に迷惑がかかる。どら息子のいうことは聞かざるを得ない。このやりかたどこかの国に似ている。ナイフを核に置き換えると北朝鮮となる。つねにこのパターンで交渉してくる。本当に迷惑がかかるのは日本である。それは先号のとおり、韓国は同族、アメリカまでミサイルは飛ばない。中国は恋しい恋しい宗主国、核ミサイル飛ばすのは日本しかない。これだけ締め付けられた状態をつくってしまうと(締め付けられない外交方法はあるのだが)もののはずみで本当にミサイル打ってくるかも知れぬ。かの国のミサイルは性能が悪い。東京をねらっても大阪へさらに徳島へ来るかも知れない。また、東京はビルラッシュである。その一本に爆薬満載したトラックが突っ込んだらどうなるか。昔、サソリなる過激派がビルの谷間に大きなペール缶に爆薬を詰め爆発させた。それでも相当の被害が出た。今のイスラム原理主義者は特攻トラックである。そういった具体性のある問題がでてきた。日本或いは日本人としてどう考えるのか。やられっぱなしか。やり返すのか。国際関係も性善説にたってみんな仲良くの世界でないことを知った。イージス艦を出しただけで大騒ぎの国である。保管ばかりして最後特攻にしか使われなかった戦艦「大和」を再現するようだ。こんなもの導入前にきっちり検討しておかねばならぬ。さてさて先の危機に対しどう対処するか。平穏を望む一年になりそうだ。
四、周囲にある文化財環境の保存策を
 大正期から昭和初期が日本の職人の花といわれる。そのころまでは徒弟制度が確立していて、建築、工芸、陶芸等々にきっちりした技術が伝承されていた。また、材料もごまかしはなかった。今は作品そのものが取り壊され、一方もの作りの伝承ができていない。
 特に建築を中心にして、バブル期にたたき壊された。先般は皇后様がご生家を自ら壊されるようしむけた。和洋折衷のレベルの高いものだけに壊す理由は何処にあるのだろう。滋賀県の豊郷小学校は取り壊しを住民が裁判にかけ「壊すな」との判決が出た。町長はそれでも壊そうとした。泊まり込みをしていて、文部科学省から「保存なら助成金をだすが、壊すのなら助成しない」との一言で保存が決まった。保存といっても使い方は決まっていない。この小学校の子供たちは文化財級の校舎で学ぶことを希望する。文化財の中で育った私がいう。こんな校舎で生徒達が勉強して欲しいと。多家良村で長屋門のある家はなくなった。このように無批判のうちにちょっとした利便性のため簡単に壊してしまう。五十センチを超える本堂内のカネはあと数年でできなくなるという。針の分野の衰退もひどい、我々の袈裟の中にはもう如法にできなくなったものもある。昨今問題になった「もの作り大学」は本当に必要なものだった。昭和期まで含めた手のこんだ作品を次世代に遺すことを考えたいものである。
こんなことを思う年頭である。今年もよろしくお願いします。

二〇〇三年平成一五年の干支癸未(みずのとひつじ) 近藤義二

 「癸」は百姓一揆の揆と同じ意味で揆計、揆測或いは揆量など、「物事をはかる」という意味である。また「はかる」には、はかる標準や原則がなければなりません。したがって則とか道という意味にもなるわけです。
 癸の意味するところは万事、則道つまり筋道を立ててはかる、考える、処理するという意味になります。
 筋道を誤ると物事は自然に混乱し、その結果はご破算にしなければならないようになります。だから、癸を平均にならすという意味にも用います。
 よって、癸という「干」は万事筋道を立ててものを考え、処理していく、それを誤ると混乱或いはご破算になるとも限らないということになります。
 「未」は昧に通じ、枝葉末節が繁茂して暗くなる。
「未」は上の短い一と木からなっている。一は木の上の上層部即ち枝葉の繁茂を表している。枝葉が繁茂すると暗くなるから、未を「くらい」と読む。未は昧に通じる、支の「未」は暗くしてはいけない、不昧でなければならぬということを我々に教えてくれているのです。

敗戦国の二つのありよう

 年末新聞に「イタリア王家五六年ぶりに帰国」との記事があった。以前私は「世界憲法集」を読んでいた。イタリア共和国憲法に「イタリア王族のサボイア家の旧国王、その配偶者およびその男子孫は領土内に立ち入り、および滞在することを禁止される」とあることに驚きを感じつつ、それが何を意味するか。また、王家一族はどこに住んでいるのか分からぬままだった。今回はっきりしたのことはイタリアは一九四六年ムッソリニーのファッシズムを許したとして、王家一族をイタリア領土から追放し、かつサボイア家の家族および子孫には選挙権、被選挙権も有させず、公職からも追放した。しかし、この度、男子孫の入国を禁じた憲法が改正されたのを受け帰国が五六ぶりに実現した。それでもローマ法皇と会談するが夕方滞在先のスイスに戻るという。「解散されたファッシスト党の再建はいかなる形式においても禁止される」と徹底してファッシストを追放し、平等の権利を認めた憲法でも五年以内に限りファッシスト党の責任ある地位だったものの投票権と被選挙権を剥奪している。こうしてファッシスト党の独裁国家は二度とできないようにした。
 一方、日本はそれだけ戦争責任を追及しているだろうか。二週間で素人が作ってマッカーサーがおしつけたという現憲法が天皇制を維持していることをいいことに日本人自ら戦争責任を問うことをしなかったのではないか。戦勝国が裁いた東京裁判で決着してしまったのではないか。憲法も五〇年前完全に独立したとき無効として改正することもできた。が、今だに一句たりとも改正はない。二一世紀になって現憲法にひずみがきていることは事実だ。国が亡んだり、領域が大きくかわったり歴史をもつイタリアがこういう点一枚上だ。小さな例ではっきりしているのは必要に応じて憲法を改正する。国を亡ぼしたファッシスト党は確実に排除するという点である。小さな新聞記事が物語る歴史でといえよう。

余録

 年末小さな工事が続いた。一つは本堂と護摩堂の渡り廊下からつたわっていく雨水で護摩堂の外壁が剥がれているのを見つけた。もう一つはリフトの起動電流でのフリッカー現象を解決するための電気工事。前者は壁から柱へと腐食が進む。後者コンピューターに弊害をもたらす。双方細かい仕事だが小さなものから大きなことへつながる。その他細かい工事があった。山寺の住職は各所気を配らなくてはならぬ。
 昨年夏頃から、猪がたくさん出てくる。一番ひどいときは玄関までやってきた。この猪昼間でる。子供がたくさんいることで純系の猪でなく、イノブタという説がある。爪の上にはイノブタ特有の毛生えているという。タンポポは日本古来のものはないのではないか。鳥も子供のとき見たことのないものもいる。ハクビシンという狸?は昔いなかった。こういう類の変種が蔓延している。生態系の保護を考えねばならぬ。