第263号




一年を振り返って

平成一四年一月五日、私は還暦を迎えた。周年(満年齢)でないと十干十二支が還暦にならない。昔なら赤いチャンチャンコで祝った。古くは父、近くは恩師松長先生の還暦を思い出す。だが、本人はそれほどの歳とは思っていない。
 私のスケジュールより
 松長先生が高野山検校法印に昇られる年、募金等々で準備をしてきた。二月には法印就任式が行われ、三月にはその披露である転衣式が行われる。就任式は従来高野山内のごく近親の住職で行われると聞いていた。それが打ち合わせを兼ね、集う会会長の私と大阪の田辺幹事、岡山の宮寺事務局長と三人で参列せよと。これが最初で最後だという全く異例と由、おかげで高野山の秘儀を体験できた。転衣式は「さすが先生」と思わせる、各界各様の方々が参列され盛大にして厳粛に何の事故もなく終了した。一方、二月末当山に珍客の来山。愛知県海部郡美和町の町長さんをはじめ有志の面々である。美和町は古くは蜂須賀村。当山の戦陣錫杖を確認のため来山。三月二一日お正御影供・土砂加持の当日、知事選挙にふた従妹が出馬するとの新聞報道。結果は承知のとおりだが、初めて多家良村全域歩くことになる。以前の武市一夫先生の時にはなかったことだった。これが知事選かと過度の民主主義の蔓延だと思った。知事選挙の翌日より結縁御開帳、歩いた後遺症は癒えていない。その未明副住がただならぬ様子、盲腸を手術して入院。そんななか御開帳中がんばった。五月中旬無理がたたって五体が動かない。何度か淡路の友人米田師へ針治療に。近づく八千枚には不安なか準備を急ぐ。
 六月十日八千枚加行開白。ここまで来たらあとは修行のみ。諸佛、諸神のご加護と精進料理、五穀断ちで体調はだんだん良くなる。二週間後、正行に至って十穀断ち、益々快調になってくる。といっても両肩になった五十肩はいっこうによくならない。七月一日不安一杯のなか焼八千枚。七時間後、おかげさまで結願。勢いにまかせ本誌抄を単行本に纏めることで企画開始。八月二日の蜂須賀村訪問まであと一ヶ月、蜂須賀家のにわか勉強を始める。このことに詳しい阿南の水田弘城師の御教示と多くの資料の提供を頂く。
 八月二日戦陣錫杖のお伴をしてはじめて和歌山、奈良、三重県を経由して愛知県、美和町へ。大歓迎を受ける。美和町歴史資料館の鎌倉学芸員から「江戸時代の聞き書きの古文書」に「蜂須賀小六が桶狭間の戦いに挑むにあたり、如件のお地蔵さんと当山の錫杖を戦陣に運び御守護をえようとしたが、等身大の鉄地蔵を背負った小六公はあまりの重さに沓掛の松で動けなくなった。しかたなく錫杖のみ戦陣に運んだ。結果、蜂須賀党の活躍による大勝利に終わった」とあると聞く。爾来、蜂須賀家の戦陣にはこの錫杖が祀られていた。逆算すると四四二前の里帰りである。たいへんなことと実感する。お盆を経て、九月二六日、夫婦同伴で高野山大学三九会(同期会)に富山県の立山へ、帰って我が家に一泊、三十日再び同伴で高野山へ団参。松長法印様の結縁灌頂を受けるためだ。参列者の皆さんには好評を受けた。紀子この頃から目の不調を訴える。十月二一日御影供と父の三三回忌を併せ執行。あと紀子目が見えないと。検査、入院。十一月六日高野山より電報、権大僧正に推挙される。十三日お十夜初日、紀子頭部切開手術。二三日、司令塔のいない百味供養会。副住夫婦、娘は本当によくがんばった。無事終了。三十日坂口甚四郎総代逝去、十二月一日葬儀をすませ、高野山へ。二日権大僧正親授式。何もかも待遇が違うので面食らう。赤い袈裟を掛けるとこんなものか。この日一日かも知れないが外見はたいへん偉いのである。内部はまったくかわりないが。還暦のチャンチャンコ代わりに赤袈裟だ。二五頃、単行本「朝念暮念」発刊予定。
 八千枚以降護摩その後
 護摩堂に入る気がしない。朝夕のお供にいると何処も煤だらけ、何に触っても黒くなる。八月二十一日までの五十日間アレルギー状態だった。晋住以来一ヶ月以上護摩を焚かなかったのは初めてのことだ。それから年内百座のお礼護摩をと思っている。毎日の声明は半年間休み、八千枚時慈救呪を一日大声で誦えたところ喉がどうもおかしい。声の調子がよいと横の鐘が共鳴するのが全然しない。誰にも言わなかったのに従妹のFが十一月になっても「声がおかしかった」という。七十歳半ばなのにたいした耳だ。
多大な御寄進に感謝
 元旦朝一番、西野廣美、八重子様から百万円の御寄進を頂いた。続いて、二月に月参り五十周年を迎えた粟飯原三郎様記念に百万円、五月上野誠久、充子様が十五周年に五十万円、八月鈴江好子様が報恩謝徳のため五十万円、九月原有義、レイ子様が六十万円、十二月、杉本キクエ様から座布団五十枚、また匿名で多大な御寄進を頂いた。これらの浄財は特別会計として五大明王、四天王の修覆の不足分、涅槃像、両界曼荼羅、御縁起絵巻等文化財級の軸物の修覆、リフト新設などに使わせていただきます。
 一年が数年に匹敵するかのようだった。還暦とは赤ちゃんに帰ると聞いていた。もっとのんびりしないと赤ちゃんは倒れてしまう。この外面に対し内面は「皆様のおかげ」ということが体得できつつある。私も周囲もたいへんご加護を頂いた一年であった。


歩けたMさん

 先号のMさんは宮下文子さん。彼女は昭和六十年から左足の間接が悪くO脚になっていた。そのため前々から本堂前の階段が登れず、一人階段下の石香呂横から手を合わせていた。今年八月に軽い脳梗塞を起こした。右半身不随になって、歩くこともできず車いすに乗ってのお詣りなった。初めはご主人が押していたが、リハビリが進むに連つれ、境内を護摩堂から大師堂まで自分で自由に動かせるようになった。十一月八日リフトができる旨を伝えた。工事は遅れ薄暗くなって完成した。試運転第一号を彼女にお願いした。これから先不特定多数のどんな障害を持つ方々が使うか分からない。専門家でなければ試運転できないような代物ならサッサと撤去したらいいと思ったからだ。簡単に操作して回廊へ上がった。内陣は常の如く点灯していた。彼女の心になにかピリー感じたという。お詣りしたあと涙ぐんだことは述べた。帰っても感激のあまり夜遅くまで涙が止まらなかったとご主人晃氏はいう。
それからというもの、もともとお詣りは多かったご夫婦だったが、少なくとも一週間に一回、たいてい三日に一回位、積極的にお詣りに見えた。先月中は車いすでリフトまで来て乗り換える。「登り終えると前に机があったほうがよい。椅子を賽銭箱の付近に置いてください。石畳からリフトまで凸凹石では車イスが動かせない」といろいろ提案してくれる。私にとっては車いすをを使っている方のナマの提案は助かる。そのとおりにするとあとから来た人はたいへん都合がよいという。因みにその助言によりリフト下のモルタル、本堂入り口のステップ等改良した。十二月になって護摩堂横の駐車場から先が四つ足になっている介護用の杖をつきながら本堂前まで歩いてくる。そしてリフトに乗ってお詣りされる。曰く「もう歩けるようになりました。本来だったら良い方の足で悪い足をかばうですが、私の場合左足が膝関節が曲がっているので逆に悪い右足で左足をかばわねばなりません。それでこのツエ(四つ足の)がいるのですが、左足がよかったらもうツエはいらないのです。観音さんのおかげです。初めてあがったときピリーと感じて、助けていただきました」と。ご主人曰く「医者がこんなに回復するととびっくりしている。春に手術といわれていたのです」と。

今後、北朝鮮と関係は

イラクは戦争前夜の様相である。今度はイラクもやられないように対応するだろう。一方英米は難を吹きかけるだろう。戦争すればたいへんだ。ぎりぎりで和平を選ぶことを望む。が、フセイン大統領が失脚しなければ根元を絶つことができない。どう料理するのか。次なる標的は北朝鮮これも金正日を絶たねばならないと思っているだろう。今度は兵糧攻めならぬ核攻めでいくのだろうか。拉致問題のある程度の解決を得たら、日本人は北朝鮮が核を持った場合を考えてみるとよい。北のミサイル、テポドンは日本の頭の上を越えていった。だが、まだアメリカまでは飛ばない。韓国へは同胞親戚を撃たないだろう。日本は植民地時代の恨みがある。よって一番危険なのは日本となる。誰でも分かることなのに拉致問題までで終わっているように見える。北政府は悪だが、そこに住む人々は罪がない。よって食料援助という論理もいいかげんしたい。北朝鮮は国連に加盟する国家である。日本は数年前の不作の時、世界に米を求めた。その国が富んでいようとなかろうと国家である以上国民を生かせる(喰わせる)義務がある。喰わせられないのは国家とは言えない。
これだけははっきりさせておこう。日清戦争によって李朝朝鮮は清国から完全独立した(それまでは宗主国清国の属国)そのことは下関条約の第一条に明記されている。その後、日本のエゴかは知らぬが、独立を保てず、日本国に併合した。それまで朝鮮国では人間として数にはいらない人々もあったが、日本政府は戸籍をつくり全部日本国民にした。同じ国故教育、鉄道、農業政策等々多く投資を行った。日本の時代は北朝鮮の国土はこんなに荒れていなかった。北独立後、日本の残したダム、鉄道、工場等々の資産を使って一時期韓国をしのぐが如き反映を見せた。だが、再生産に力いれないで食いつぶした。今韓国と同額の援助をしてもまた食いつぶすだけということを思わねばなるまい。

 

米国ミシガン州、フィンランディア大学

 アッパーミシガンという北部スペリオル湖岸ハンコックにある。私は平成三年から本学の入学面接委員(レップ)をしている。日本と制度が異なるのでレップの私が面接して入学の合否が決まる。 本学は米国高等教育認定評議会(コパー)の認定を受けている。因みにこれらのコパー認定校は全米の大学の三分の一という。コパー認定校どうしは単位が共通といってもよい。本学の単位取得成績(GPA)をもって他の大学に乗り換え(トランスファ)が可能である。逆に同じ大学を卒業するものは少ない。徳島新聞に「テロ後のニューヨーク」を毎月連載している栂岡圭太郎君は本学からニューヨークの美術大学にトランスファした。Iさんはアリゾナ大の数学科にトランスファし今デトロイトで働いている。音楽専攻のK君はニューヨークで作曲家をめざしている。等々米国の大学は自分が勉強したことにあとから○○専攻とついてくると考えるとよい。自らのやる気によるのである。 
米国留学には先ずコパー認定大学であるか。正式に入学が許可されるか(単に語学学校へではないか)。入学のための機関(私のように)は信頼おけるか(今業者はかなり高額の手数料を取っている。或いはいかがわしいのもある)。卒業生の進路はいかにを考える。ある日本の大学のアメリカ校で三年間単位を取得した。が、アメリカの大学ではないためトランスファできない。もちろん日本にない大学のため名前は日本の大学でも日本の大学卒業資格は得られないというとんでもない話があったことを披露しておく。信頼できない機関で留学するのは危険。故に私はこの職をやめないでいる。
本学は先ず正式入学をさせる。茅ヶ崎に日本留学事務本部があり事務局長山本晃博士がITを使って学生達のカウンセリングをしている。現地では留学生用のカリキュラム(ゼネラルスターディズ)のなかで米国生活と大学英語を教える、一方語学不要の体育、音楽、美術等の単位を取得させ、だんだん語学に向上にあわせて他の単位を取らせる。二年後希望のものはトランスファーする。この留学生用カリキュラムが確立している。そのため湖の海峡をはさんだホートンにある州立ミシガン工科大学の留学生教育も本学で行う。