第262号




回廊までリフト完成

本堂前までは車で来られる。足の弱い方、車いすの方はお線香場から手を合わせている。ほとんどが昔は麓から歩いてお詣りされた方々、私の顔なじみである。何か回廊をへて本堂の中まで上がる方法はないかと思っていた。真っ直ぐに上がるエレベーターをつけることを考えたが、回廊の高欄を切ってしまわねばならぬ。その上、下部のバリアフリー化も必要だ。斜面の廊下でと考えるととんでもない距離が必要になる等々の方法を考えていた昨今であった。
 その矢先、若い月参りの信者さん、長尾栄三君が参拝に見えた。彼との四方山話をしているうちに、その道の専門家、介護用具を扱っているとことが分かった。「階段、欄干の景観をできるかぎり破壊しないで足の悪い方を引き上げる方法はないか」と聞くと即座に「リフトの屋外用がある」という。「ですけど、こんなところに設置するのは聞いたことがありません」「そうだろうお詣りのお年寄りの現状をいつも観察している住職がそういるかい」といいながら、概略の説明を受け、「後日カタログを持参します」と。カタログではよく分からないところがあったものの、専門家の目で寸法、角度をを測り設置可能となった。技術的な打ち合わせ、値段の交渉等々をすませ、十一月八日朝、いよいよ設置工事にかかった。工事が進むほどに簡単で機能的な設備であることを実感していった。
 Mさんの奥様は以前からお参りに見えても「足が悪いので」と石香呂付近から手を合わせお詣りしていた。その上今夏には軽い脳梗塞になってしまい車いすを使い、リハビリを兼ねてお詣りしている。元気に車いすを動かしているものの、回廊まではより遠くなってしまった。そんなわけで「八日にリフトができるけん初乗りしてよ」とたのんでおいた。所用で池田まで行ってたというのに夕方Mさんが乗せて登ってきた。だがまだ試乗できない。我が孫どもも試乗に本堂へ上がってきた。待つこと小一時間。薄暗くなってしまった。孫達は寒くなって下りてしまった。やっと完成した。先ずM婦人が乗る。頭脳明晰は婦人は簡単に操作法を理解し一気に回廊まで上がった。外は薄暗いが本堂の中はいつものとおり明るい。「まるで別世界・・・」と感激、涙ぐんでいる。婦人の場合先述のようにここまで上がってきたのはあまりなかった。Mさんご夫婦、工事関係者、私がみんなで感激した一瞬だった。
 九日は午前中所用で留守にし、午後本堂に上がった。ふと見ると下からお詣りしている。「昨日リフトができたからどうぞ」「そうですか」と限りなく健常者の婦人は簡単に上り下りをした。次にBさんの車が慈母観音前に来て奥さんが一人お詣りしている。誰かが車に残っている。「ああBさんだ」「奥さん、ご主人をこのリフト乗せてあげて下さい。昨日できたところですよ」その車は座席が回転し車いすに乗せやすく改良してある。余談だが椅子だけが回転するもの、椅子が外まで動くもの、椅子そのものが車いすになるもの等々この種は色々ある。介護に手慣れた奥さんによってリフトに乗せられ簡単に回廊まで上がる。「今日なんとなしにお詣りに行こうと出てきたんですよ。そしたらこんなことにあって・・」と奥さんが感激しておられる。
 九日朝、千葉県からMIさんが帰ってこられた。携帯電話から「第三駐車場の鍵あけて下さい。足が悪くなって若い時みたいに階段が上がれないのです」と。久しぶりだった。その間にすっかり足を悪くしておられる。「リフトがおとといできたんです。とうぞ」かなり体重の重いMIさんも楽々上がる。本堂内に入るにはさらに大きな段がある無理をしたけれども若いときと同じに内陣でご祈祷して帰られた。MIさんにすれば前の階段をどうして登るかが心配であっただろう。まさか、こう簡単にいくとは夢にも思わなかっただろうと思うと楽しくなってきた。そのあと早速内陣への段を上がりやすくする工事をたのんだ。Jさん婦人も病気で倒れてから車椅子。
先日リフトができる話をしておいた。車からリフトまでは一番たいへんだった。が、乗ると慣れた手つきで動かす。「うちも二階で生活してますから、これをつけているのです」と。結局概ね一日の間に七人の方の利用があった。思ったより需要がある。新しい発見であった。
十二日夕刻、リフトの完成を見ていない長尾君がお詣りを兼ねて、登ってきた。朝から左官屋さんがリフト下の石組みを平らにする工事をしてれているところだった。彼は「お詣りに来ていながら、ここを登れないお年寄りいることに気がつかなかった」と。「私は個々の人が下からお詣りしていることを知っているから、私が神通力でもあって引っ張り上げることができたらそんなもんいらんのだけど、あくまで手段として考えた」等々感激をもとに長話になってしまった。

八千枚修行記(五)

火勢を常にあげている最大のところ、要はもう少しあげたい欲求にかられる。だが、助修の二人はそれとなく火を後ろにやってくれる。後で聞いた話だが助修の諸君の手は熱さで全く感じなくなっていたという。太鼓係も交代で続く、慈救呪は声が張り裂けんばかり、私も思いきって声を上げる。前に普段の護摩を何百座かを数えた頃、炉の火を思い切り吸ってしまったことをあった。ちょうど雲仙、普賢岳の火砕流で大勢の犠牲者がでたときだった。その苦しさをちょっと味わったことを思い出す。今日は助修の方がファイヤーキーパーをしてくれているのでそんなことは全くない。
当山の護摩堂はこれだけ火が上がっても煙いことはない。なぜなら煙は鴨居の下まではさがらない。天井はもうもうとして見えず、下から見ると雲におわれているような神秘的な光景である。だからサポーターの皆さんも煙たいということはなかろう。といって綺麗な空気とはほど遠い、暑さとやはり護摩のなかである。
千枚ごとの作法を重ね、だんだん「早く千枚が終わらないかな」と思うようになる。三千から四千枚に入ると手は動くのだが、息がちょうどチベットで経験した高山病(それは頭が痛いのだが、私は両方とも頭痛はない)の息に似ている。ただ、ハーハーフーフーいっているだけだ。しばらく手を止め深呼吸。そのつもりが吐息が多く、深く吸えない。背筋を伸ばして改めてと思うばかり、己の意志と呼吸が同調してくれない。なら、しばしば手を休めてしばらく呼吸してやろう。この頃にはずっと連続して火勢はマキシマムの状態を続けてくれる。助修の皆さんは火の中で作業してくれているように見える。太鼓、護摩木の手渡し、慈救呪の奉誦それぞれ一心同体ですすむ。さしずめ昨夜のWカップサッカー決勝戦サポーターのようだ。皆さんに励まされ、五千、六千枚と進む。八千枚の口伝には残りの護摩木を行者に見せるなとある。こんなことまで細かくよく伝承するなと思う。結果、この辺が一番苦痛だ。冷やしたタオルを頸にかけてくれるが、数分で体温とかわらなくなる。何遍くりかえしただろうか。口伝のとおり前の鳥居さんの間にタオルをかけてみた。しかし、これは無駄。サポーターの声と炎が同調して最高調。しかし、しんどかった。時間も十分ほど長くかかっている。
ここらで先妣があらわれる記述が多い。私のようにそれを待っているものには先ず無理。ところが護摩堂入り口に二人の先妣があらわれた。最上に可愛い二人である。その名は「珠由」と「有乗」我が孫達である。俗物の私は一瞬なりとも先妣に見えた。私にとっては先妣そのものかも知れない。
 さてさて、後、二千となったところで「やれるぞ」と充実してきた。うがいの余りの水も少々飲んでも問題ない、口伝にもある。衣の右肩を紐でたすきを掛ける。これなら最初からたすき掛けが良かった。最後の千は気力充分で快調に改めて有縁の皆さんのご祈願を護摩木に託しながら終わりかけた。副住が筆談で「皆さんにお添え護摩をしてもらっては?」という。「OK」「これを自分で炉へ?」「私が(いや私が読み上げて焚きましょう)」と感謝の気持ちで書いた。たくさんのお添え護摩を書いてくれる。実は自分ではもう終わったと思っている。その上の、数百本のお添え護摩。もう声が出ない。でもこれだけ支えてくれた皆さんだ。満身の力をふりしぼってはじめる。幸い太鼓、慈救呪はそのままに続けてくれたからと切れとぎれの声は目立たない。数千本分に当たるかと思う。私はご祈祷で一生きたのだと言い聞かせ、言い聞かせ、進めた。
 やっと終わった。あと、諸天段と世天段、結願作法とすすめて下礼磐。三礼ができない。皆さんの前ゆえに檀に手をついてごまかした。腰から下が抜けたようだ。皆さんの顔を見る。みんな汗ぐっしょりの顔、その中ことをなし終えたというすがすがしい法悦の顔だ。今朝はまだ成満できるかと不安で一杯だった。この方々に支えられて成満させていただいたのだ。感謝、感謝、感謝。涙は見せまい。現実は汗以外出てこない。しばらく言葉を失った。それはみんなにはわからない刹那だっただろう。大きく息を吸いこむとで感謝の言葉がでてきた。あらためて一人では成満し得ない実感が胸にせまった。
 すぐさま衣を脱ぎ捨てたかった。でも写真撮影という。護摩堂前のベンチに座るのだが、お尻が痛くてうまく座れない。やっと座って、水をたらふく飲んだ。田辺君が松長法印さんに電話してくれたらしい。電話をかわって大師のお代理、法印様から祝福を頂く。 

北鮮拉致事件に思うこと

 二四年間ほっておいた政府が、小泉首相の英断で金正日とあったところからことのほか展開した。このことはみんな理解している。 一、拉致被害者家族会の皆さんのご苦労はたいへんだっただろうことが想像される。横田さんはあの淡々とした表情で朝早くから、夜遅くまでテレビ局におつき合いしている。自分の娘さんの生死が分からないというのにみんなのことを考えておられる精神力には頭が下がる。体力的にもたいへんなものがあろうと想像する。私たちに少しでもお手伝いできることはないか模索している昨今である。
二、某大手マスコミは北朝鮮の広報機関でもあるかのごとく報道していたのが、毎日々々よくやるよというほど反北鮮の報道をしている。それが真実である内はよい。が、時々批判されるヤラセ的報道を交えてくるとせっかく盛り上がった機運が急激に損なわれる。北も黙っておるまい。けっして簡単な交渉ではないことを承知しておかねばならぬ。親北鮮は報道のみならず、この間まで北朝鮮労働党と友好政党としていた社民党(旧社会党)をはじめ、自民党の一部等々の政党、インテリ、進歩的市民等々いっぱいいたはずだ。いつの間にか方向転換しているから不思議だ。そんなとき北からの避難民を世話しているNPOの事務局長が中国の公安に捕まった。彼の証言と中国当局の発表との食い違いが大きい。いずれもあまりちがいのないお国がらであることが暴露された。
 これからは拉致被害者の方々にできることは気長に今の怒りを胸に秘めて、支援することだろう。国民の大多数の声援がある限り、いつかはよい方向に向かうであろう。

余録

 ノーベル賞の田中さんが文化勲章に授与された。文化功労者が先にあった。前者は年金がつかず後者は年金がつくという。そんなわけでセットでもらえるらしい。前号で東北大学は学位をどうするのだろうと書いたら名誉博士号がおくられた。名誉学位って、偉い人がその大学を訪問したときなどに贈られるもの。論文書かなくてもくれるものではないか。田中さんは立派な論文がノーベル賞なのだから名誉博士でいいのかなと思ったのは私だけだろうか。それにしても小柴、田中のお二人をみて楽しくなってくるコンビである。早く授賞式の様子が知りたいものだ。