第261号




二人のノーベル賞

十月八日、九日とうれしいニュースがとびこんだ。小柴昌俊東大名誉教授に続き、島津製作所勤務の田中耕一氏のノーベル賞。ここ三年連続、今年は二人とは喜ばしい。
 小柴名誉教授は「宇宙からのニュートリノ観測」が評価され、物理学賞受賞。日本人最初のノーベル物理学賞の湯川秀樹博士は中間子理論。続く朝永振一郎博士とともに理論物理学の分野、研究費がなかった時代必死に勉強した結果だった。
 小柴博士の場合は実験物理学、自ら実験屋という。博士の指揮で作った「カミオマンデ」発展して「スーパーカミオカンデ」で今まで質量がないとされていたニュートリノに質量があることを確認した。昔の神岡鉱山の坑道地下千bに設置、日本の技術を集めて作った施設である。充分な予算はない。でも世界の最先端のものが欲しい。浜松オトニクスなる会社に「特大のフォトマル(光電子増倍管)が作れないか(カミオカンデの写真にある電球状のもの)」と技術部長は「無理」と。当時世界最大のものの五倍の大きさである。いやがるヒルマ社長と同い年で誕生日が一日早い小柴博士は「おれは一日だけ兄貴だ、日本では長幼の序との言葉がある。兄貴のいうこと聞け、ノーベル賞ものの研究ができる」と頑張った。やっと五十pなら量産ができると分かり、千個の生産に二十人が一年かかった。だが、定価で買ってくれたのは二百五十個、「もっていけや先生」と寄附。これを取り付けるのに高さが四十一bもある。だが、鳶職はこんな細かい専門的な作業は無理。大学院の学生にやらせるしかない。でもこの高さ、博士は水を張っていってゴムボートに乗って作業することを考えた。このように実験屋というのは予算の獲得、実験機器の開発、一人でできないので大きな組織を動かすリーダーシップが必要である。今まで何度もノーベル賞候補だったのが「これで一段落する」との言葉で伺える。日本を代表する大学者としてもらうべくしてもらった。インタビューで「後継者、協力者のおかげ」といった主旨の発言に頭が下がった。
 田中耕一氏は小柴博士とは違う、年齢が湯川博士についで若い。マスコミも記者会見まで顔写真がなかったことで予想外を物語る。民間企業からは江崎博士のソニー(後IBM)に続く。博士号を持たないのは彼一人、東北大学は博士号をどうする。ノーベル化学賞だから理学博士が本来だが、彼は工学部電気工学科、興味しんしんだ。島津製作所は私達が小中高校の理科実験器具で一度は使った。高度な機器を生産するようになってとうとうノーベル賞をだした。タンパク質の質量や立体構造を解析する方法の開発が受賞となった。さらに島津はそれを測定する機器を作った。彼の特許報酬は一万一千円也。徳島にも似た話がある。「寝耳に水」と作業服での記者会見も新鮮であった。しかし、化学賞の同時受賞者の経歴は世界の権威者二人。その業績がいかに偉大か想像できる。徳島新聞に受賞者二人の電話対談が載った。「実験を重視しておかしいことが出てきたら全てを突きつめて」と田中氏、「ぼくのいいたいことすべていった」と小柴博士。二人の共通点は実験を重視したことだ。この度考えさせられるのにノーベル委員会の評価は大きい基本的研究業績、各方面に応用でき、歴史を刻む、○○の定理といわれるようなものに与えられると思った。小柴氏は「ニュートリノ天文学」という分野の開拓、田中氏はタンパク質を測定する方法ともにこれから発展して新しいものに演繹されていく可能性を秘める。小柴博士は日本に多くのノーベル賞クラスの研究があるというし、日本企業研究もノーベル賞級になった。これからも明るい。

北朝鮮拉致事件

 やりきれない思いでこのニュースを見る。小泉首相が訪朝するとき、これだけの人が死亡とは日本人の誰もが考えなかっただろう。しかし、深く考えると拉致そのものが国家による犯罪なのだから、このようなリスクも考えにいれなければならなかった。結果、小泉首相訪朝は一応の評価だが、北朝鮮のペースだったことが露呈した。
横田めぐみさんは先方のいうことが真実となら、拉致、結婚、出産という過程になかで心の病気になるほどの重圧があったのだろう。が、死亡日時以後にあったという人の情報もある。大韓航空爆破事件のキム・ヨンヒの本を思い出すと日本語の先生リ・ウネは退廃的な態度で日本語を教えた。この本(韓国語、日本語他)に書かれてしまった以上リ・ウネはなきものにする。それは彼女の存在が大韓航空機事件に北朝鮮がかかわったことを認めることになるからだ。あれだけ証拠物件をつきつけられても今もってこの事件の関与は認めていないのが北朝鮮である。よって、彼女は地下室で殺されたというのが今月号文藝春秋の表紙である。生きているものは夫婦でめぐみさんのような重圧に耐えたのであろう。元アメリカ軍人と結婚したという曽我ひとみさんは他の人たちと発言がチョット違うのではないか。・・・否、拉致した人を外国人と結婚などさせるものか。彼らは日本人に化けるためのモデルだから朝鮮化させることはあり得ない。八人死亡とは疑わしい。が、そのうち数を合わせ殺してしまうおそれがある国だという。
 今になって、ホームページから北鮮条項を削除したという社民党と北朝鮮との関係ももう一度糾弾する必要がある。彼の党の紹介による訪朝団は日本人はなめられぱなしだった。他に金丸氏をはじめ利権にすりよったもの、北鮮の広報マン的某マスコミ大新聞、売国奴達は数多い。
 小泉首相が初めて国交回復の交渉テーブルについた。それには拉致事件の解明なく、国交回復はないという。が、共同声明にはそうは書いてない。何でも小出しにして、次はお前が悪いと大騒ぎし、銭をせしめるのが北朝鮮、その頭目が金正日、これからはもっと毅然とした態度で交渉して欲しい。毅然ととは例えば死亡年月日がおかしいという。元工作員安明進氏の話を日本、韓国の当局が持つ、それとあわないように作為している。日本警察は韓国に行ってキム嬢、元工作員等々から聴収してもっと詳しいデータを持つ。それなのに今度の交渉チームにははいっていない。警察、防衛の専門家を加え、データを使って相手の隙間をこじ開けることだ。
 日韓条約では朝鮮半島の唯一の正統政府は大韓民国(韓国)とあり、交渉は時間を要する。日韓条約も十四年かかった。
 しかし、北がこれだけ譲るのは近未来の崩壊開始ではあるまいか。
金王朝の崩壊を待ってもよいと思うのだが。
マナーの良さ
 朝、「心の時代」を聞いていた。草柳大蔵氏がかけだし記者の頃、上司に芦田首相宅に原稿を取りにいかされた。応接間に通してくれたのでソファーに座って待っていた。婦人が首相の原稿を持ってきてくれ、別れ際に「あなたね。応接間で待つときは立って待つのが常識ですよ。そのために花を生けてあったり、絵が飾ってあるの」と教えてくれた。明治の人は若い者に誰彼なくおしえてくれたという。明治の父を持つ私には思い当たる。それ以来草柳氏はこのことを肝に銘じた。
 晩年、氏は(早朝のことで名前が思い出せない)日本代表的経済人の紹介で経団連の会長にインタビューを申し込んだ。一週間ほど返事を待ってやっと実現した。会長曰く「君を調べたら、人を待つとき必ず立ってるそうだね。そのことを聞いて君と話したくなったんだ云々」後のことは忘れたが、一日すっきりした気分だった。

八千枚修行記(四)

七月一日
 結願の日。三時半起床、高橋さんに階段を朝点灯しておくといってあったので鐘楼門前の階段から登り全部の電気をつける。高橋さんを待って朝勤行、といっても私は胎蔵界の理修法。了って護摩堂へ散念珠は千遍でよい、なんと短いことか。ギャラリーのいるところでの護摩は久しぶり、初めてヒグラシが鳴く。終わると朝食の必要がないので時間は充分。一口睡眠を取ることにする。なんたる心地よさか。それから風呂、但しシャワーのみ、下着に紙おむつを使って小用の安心を得ようとする。所謂おむつ式かパンツ式か。両方はいて、パンツ式がよい。身体にフィットして実に気持がよい。座りぐわいもよさそうだ。九時半本堂に登る。田辺幽応師が見える。てっきり息子さんが来てくれると思っていたのだが本人である、友達がいのある行為に感激。護摩堂ではすっかり準備が整えられている。仮シケツは最初からかえておき、五瓶華は撤去してくれていた。
 九時四十五分、少々早く始めようと気楽に登壇。東宗院、平尾師、和田寺、田辺師、天正寺、石本師、安養寺、米田師、長谷寺副住、森師、高野山宝寿院、渡辺師、醍醐寺、大川師、それに当山副住、弘乗房が助修、媒介、承仕三役を引き受けてくれる。こんなメンバーの中で護摩を焚くのは緊張する。案の定付け木の場所を掃除してくれたらしい。よい付け木がない。かろうじて火天さんのご来臨。だが、火天段の終わりに火天さんは帰ってしまった。第二段部首段でまた着火のはめになる。次第にあるのだからこれでよい。が、普段は火天段でフラッシュオーバーさせている。本尊段、百八支の前、火が落ちてしまわないだろう。本尊段で火は勢いをますが、まだ落ちない。エエイとばかり檀木を組んだままではじめた。そのとき初めて気がついたのだが、今日は多くの助修がいる。護摩木が的がはずれるとすぐ拾ってくれる。本尊様、お不動さんがややタイミングをおくらせ助修のテストしたと思う。
 加持物了っていよいよ八千枚、助修等が壇上をかたづけてくれる。
油器は煉瓦を置き手元によせる。前机を護摩檀とフラットに改良してある。その上にまず仮金剛盤にのった百八支が運ばれてきて開始、普段とはだいぶ遅いペースだが、どんどんいった絶好調こんな楽しいのなら何時まででもよい。だいたい体育会系の体力だ、この調子なら楽しくやれるぞ、いやいやこれから先なのが起こるかわからないといった風に相互に考えながら千枚が終わった。三十分ほどしか経っていない「これでは三時過ぎに終わってしまうな」など思いながら、混沌供、加持物、慈救呪を作法通りに行って、二千へ、それも順調だった。
 中川前管様は小さい体だからずいぶん身体を前に折り曲げた状態だったとご著書より拝察する。私の場合、座高がバレーボールの選手並みに長いのと先述の前机を高くしたことによって背筋を伸ばしたままシュートが可能。前机の改良は八時間ほど坐るためには一度や二度足を伸ばさないと持たないだろう、だったら先のように改良すれば足が伸ばせるという魂胆だった。ところが思わぬ展開になり良い方に展開した。
 乾いたタオル三本ばかりもっておれば良いだろうと思っていた。あにはからんや二千を終わるかのところで三本ともグッショグッショしぼれる状態である。後は冷やしたぬれタオルをくれる。できれば乾いたものを充分用意した方がよい。千本すんだところでうがいをさせてくれた。昨朝から歯磨きのうがい水しか口にしていない。冷たさが何とも言えない。だがまだ口に入れては小用をもよおす、或いは吐き気の危険がある。まだまだ用心用心。   (次回完結)

余録

 三年目の高野山団参募集するや早速応募いただき満席で出発した。この度は恩師松長有慶法印さんが結縁灌頂の大阿をされるのにあわせ我々も入檀と計画した次第。経験者も初めての方もそれぞれに感激いただいた。北海道からお二人の参加。帰り関空橋の手前の駅でお降り願い、我々は湾岸線で帰った。その日、その時間は東京地方台風の真っ最中。一時間遅れて関空出発揺れに揺れて札幌へ、翌日中北海道が台風のため一日欠航だった。