第260号




第十四代徳島藩主 蜂須賀茂韶(もちあき)公

茂韶公は十三代藩主斉裕の長子として江戸の徳島藩邸で生まれた。十三代藩主斉裕は十一代将軍家斉の二十二子、十二代徳島藩主斉昌の養子として蜂須賀家に迎えられた。蜂須賀家は十代重喜と十三代と二度目の血のつながりは途絶えた。その子が茂韶即ち元将軍の孫である。慶応四年(一八六八)一月父の死後に襲封した。明治とかわり新政府ができる年にである。翌年版籍奉還。新しく徳島藩ができる。茂韶藩知事、三年稲田騒動。四年七月廃藩置県で侯爵(華族)となり東京、三田住んだ。藩主・藩知事合わせて三年余だが、この間徳島にとっては波瀾万丈の時代であった。逆説すれば嫌な三年をやっと解放されたということであったろう。
 明治五年イギリスへ遊学、八年オックスフォード大学ユーリオルカレッジに入学、十二年卒業、明治の元勲等のなかにあって、きっちり教育を受けたものは少ない。一月に帰国。八月外務省御用掛、十三年四月税関局長、十五年参事院議官、十二月パリ駐在特命全権公使、十九年まで在仏、二十一年元老院議官、二十三年東京都知事、二十四貴族院議長、二十九年文部大臣、三十年枢密顧問官、四十一年義定官。一方、自由民権運動には物心両面から援助していたという。徳島発の政治結社自助社は旧藩士の井上高格が設立したこともあって資金援助を惜しまなかった。自助社が中心となり慶応義塾の徳島分校(今の徳島プリンスホテル玄関東付近という)されたのも茂韶の影の力があった。学校に茂韶の偏額が多い。気さくに揮毫していた証左だろう。経済面では蜂須賀農場の経営、日本鉄道、東京海上火災保険の初代社長、大阪紡績等経済の近代化に力を注いだ。
 これらは多く語られているが、私はお盆におじゃました小松島の旧家に茂韶の偏額と一枚の掛け軸がある。それは日清戦争で戦没したご先祖を記念するものである。
 それには四段構成になっており、上段は偏額と同じ茂韶の書(写)二段目が死亡一時金及び恩給証書(写)三段目が戒名と戦没日時、下段が履歴となっている。明治二十七年の年号より、茂韶が文部大臣になる直前、一兵卒の戦死に殿様より弔意の偏額を賜った。しかも殿様は日本を代表する偉い人である。茂韶の偏額は比較的多いが学校などには書があっても一個人には少ない二段目の明治二十八年十月二十七日づけの恩給証書には扶助料年額三十円。戦没者への一時金百五十円、さらに明治三十一年一月二十日には「戦役の功により賞与すべきところ死没せしにつき特旨をもって金百二十円を賜う」とある。日清戦争は明治二十七年六月の所謂「東学党の乱」にはじまり八月一日清国に宣戦布告、翌二十八年に四月下関条約で終結した。偏額は普通社なる後援組織で募金を行い、旧藩主には染筆させて偏額を贈った。いきさつを書いたなか、清国をやっつけたこと、朝鮮国を独立させたこと、台湾を清国から分離したことをあげ、故人はそのことに功労があったと賞賛している。そして下段は恩山寺住職の撰による履歴。
 日本が初めて外国を相手にした戦争、天皇の命による戦争だった。が、不幸にして命を失った方に対しこれほど丁重にされているので驚いた、一時金、賞与あわせ二百七十円は当時の戦時公債が三千万円から判断して相当な金額であっただろう。
 下関条約第一条に韓国の清朝宗主国からの完全独立。遼東半島、台湾の割譲、賠償金二億両(三億円、日本の財政収入三年分に当たる)を勝ち取った。ところが列強から三国干渉となるが。それでも遼東半島還付報償金三千両をとっている。こうした国家の功労を故人の犠牲によるものと明記されている。一戦没者が物心両面から顕彰されている、太平洋戦争と比較してどうだろうか。
 かくして、ややなじみうすいような茂韶公だが、高野山光明院の参詣講趣意書には明治維新後「今までのように蜂須賀家では面倒みられないから参詣講を作ってみんなでまもっていくように」とも書いている。先見の明のある、殿様でも自由民権を応援したように明治維新時にすでに今日の日本の行く末を睨んだ殿様であったことがうかがわれる。

八千枚修行記(三)

二十四日
 初夜より正行開白、やはりすっきりしない。散念珠、慈救呪五千遍になって、何か充実してきた。心配していた五千遍だが無事終る。
ところで今日から菜食、十穀断ち余り心配はしていないが一週間ご飯を断つとどうなるのだろうか。我が体重は元に戻った模様これからが楽しみだ。昨日から寒い。日中の座から長袖上下だが夕方はまだ寒い。十六度である。
二十五日
 慈救呪五千遍はさすがに長い。だが、逆に眠ることがないようになった。集中していないと一回二回真言ならず百遍を繰り上げしないで終わるからだ。今日も十六度朝から長袖を着ての修行だ。禅宗さんならもってのほか。それでも冷えてくる。護摩の間だけが天国だ。正行に入って全体に快調である。
朝の小鳥の声、声が聞こえる聞こえない行者にあると思っていた。ところがそうでもない、今朝はカラスがたくさん鳴くと小鳥はいないのか、あのガラ声に打ち消されるのか、ウグイスなど声がしない。ホトトギスだけは問題なく鳴いている。晴れた日の朝は小鳥も楽しいのか。たくさんの種類の小鳥に声が聞こえる。カッコウや青鳩のオワオ、ボーとなかには大きな鳥らしいのもいる。
二十六日
 正行三日目やや疲れを感ずる。それも諸般の事情で休憩がとれなかったことにもよる。五千遍の散念珠はこたえる、初夜の座で千遍多かったように思う。でも終了時間は五分と違わない。ここらで霊験があるところなのだろうが、そう思いながら待っている輩にはいっこう現れない。本来護摩堂にある五大明王は京都の美術院で修復中、あの怖くて、かつ慈悲深いお不動さまがおわしますところの行も様相が変わったのではないかなと思う。にらみ合いのなかで得られるものがあったかも知れぬ。とはいっても八百座あまりはにらみ合ってきたのだから、留守番のお不動さんの扉が閉まっていても目の底のはいつももいらっしゃる。
二十七日
 三週間目にいって生活になれてきた。これを生涯続けると良い坊さんになるのだろう。宮崎さんがはいって境内に掃除をはじめる。土日が雨というので護摩堂前にテントをはった。少々手伝ったところ早速指に怪我をした。行者は行以外するべきでない。これからだんだん外部が忙しくなってくるのだろう。
 十穀断ちから四日目、単なる精進のときとは違う、先ず精進のときから三食後快便、そのうち十穀断ちがはじまってからか、ウサギの糞状の便が混ざる。たぶんまた快便に戻ると思う。今日あたりから量を減していこう。いきなり断食では胃腸がびっくりするだろう。 修法はだんだん時間が長くなる。慣れるにしたがって短くなるのが普通だが、私の修法は時間だけは短時間の限界に近いから、丁寧にすることを心がけるとこうなる。中日につき神供を行う。四回目。
 昨日から気持ちの良い体操を発明した。念誦しながら脇を締めて両肩を下から上へ自分でもみ上げる。念誦をゆっくりしてあわせるも良し、止めて行うも良し。逆に下げるも良し半伽座に合う。
二十八日
 百八支の乳木で面白いことができた。炉の上を乳木で覆って火を伏せるのである。単純だが今まで一度はやってやろうと思いつつ、出来た試しはなかった。それを今日の後夜にできた。といっても百八支を投げ込んだ後、本当に火伏せでは困るので扇子で風を送って一度に燃やした。後のことだが最も燃えさかる炎の中に加持物をなげた経験もはじめてだった。
終盤になって、当日の用意がはじまった。副住と慈海尼が護摩堂のゆぎ塔を移動。後ろがすっかり広くなった。当日のお詣りはいかほどか。 でも、少々疲れ気味散念珠が眠い。護摩になるとヤレヤレだ。
二十九日
 目が覚め時計を見ると二時半、いつもはもう少し早い時間に目が覚めヤッタと小便の後もう一度寝るのだが今朝はさえてくる。外は大雨の様子。三時が過ぎてエーイと起きた。おかげでゆっくり修法三昧が出来る。雨音のみもなかなかいいものだ。
 結願の前の後夜のことを思って今日は三座とも六千遍の慈救呪をとなえた。これで三千遍先取り、明日一座そうしておくと後夜は千遍で一洛叉を終える。朝から結願の八千枚へと風呂に入る等いろいろ忙しいからである。これは勝手に決めたことだが問題あるまい。 六千遍三座はさすがに参った。ボーとすると千遍単位で間違う。それでも朝から充実した、それは各座の間に十分ほど眠れたことにあった。
三十日
 目覚ましより三十分早く起床。昨日に続き千遍くりあげ、六千遍念誦、さすがに疲れる。後の千遍は時間と疲労をよぶ。
 朝菜食の後より断食、初夜の行を終えたあたりから空腹になった。副住、森君、大川師夫妻、椋井さんが来てくれて諸般準備、充分と思うのだがまだ不安らしい。
 小生は明日の後夜一座でいよいよ八千枚、本尊様はじめ諸神佛のご加護あらんことを。
 私にも諸準備があり多忙、めずらしく長い一日だ。北海道高橋さんご一行五時半到着。今日はサッカーの優勝戦ラジオの中継を聞きながら眠るのは最高だ。なぜならサッカーのラジオ中継だけではその光景がイメージできるほどサッカー好きではない。なんだかわからんうちに寝てしまうということだ。

道路公団改革の話

 最近の議論から道路四公団民営化。先に決定に凍結の是非。改革族は民営化した公団(会社)が赤字にならぬよう。何年かで債務を返済できるよう考える。対し、道路族は道路は国民のために必要という論点から議論する。歯車が違うところで議論しているから、いつまでたっても噛み合わない。
 道路は踏み分け道でも遠くまで伸びれば一人で管理できない。多くの人が使うとだんだん立派になる。結果、公共団体が管理する。私ども田舎者はそのことがよく分かっている。中津峰山の道路は昔は山の住民が自分で作った。第二次大戦中用材搬出のため馬車道がつけられた。昭和四十七年今の峰越林道が開通した。その頃までは大雨、台風といえば道具を持って山の住民が道路をまもった。が、最低副因四bの道路の管理は住民では無理である。開発から徳島市がかかわってくれるようになった。それでも年に二,三回は草刈り側溝あけに出る。もちろん無料奉仕である。これが町から町、県から県となると国道となり、国が管理する。こうするのが国のつとめというのが道路族の切り口である。
 一方、イラチがいるのが人の世「早く走るに金を出す」という発送から、いくつもの企業ができた一つは道路公団、原価償却が終わると払い下げると確かに高野山道路はそうだった。そんな別社会のような道路がたくさんできた。最初は東名名神のようが頻度の高いところだけ故、問題がなかった。が、「僕も道路欲しい」と全国が手をあげた。結果、大赤字。議論は道路の発祥云々ではなくこの企業体をどうするかといものである。この噛み合いっこない議論をやっているから、頭がおかしくなる。
 改革派にとことん峻別して赤字のない会社に改革せしめる。次世代まで赤字の持ち越しはごめんだ。それでどうしても必要なら、それぞれが作ればよいだけだ。

余録

 日本ハムの事件、原子力の怖さを一番知っている人たちがデーターをねつ造、ヒビを隠した東電と不祥事が出てきた。社会の膿が出尽くしたのだろうか。今日の人々は信念を持つほど人生厳しくないからまだまだでてくるのだろうか。徳島ハムの時代からなじみ、同年配がたくさん就職した会社とだ。なんだかかわいそうになる。この際、各企業人は佛教徒四徳目を実践して欲しい。
 知事アドバイザーが決まった。このメンバーへの疑問は一、全部中央の先生方ばかり、二、応用部門ばかり。地方発信方向は知事の基本ではないか。基本を考えるとき哲学、歴史学等の先生方が必要だ。