第259号




美和町訪問記

当山所蔵の蜂須賀家「戦陣錫杖」は蜂須賀小六公が桶狭間の闘い挑むとき、現在法蔵寺の本尊、鉄地蔵とともに戦陣に持っていこうとしたが、あまり重いので錫杖のみを持っていった(先方の由来記として古文書がのこっている)。結果、当時の常識を破る大戦果だった。それ以来、蜂須賀家の戦陣にはこの錫杖があった。
 この度、蜂須賀村法蔵寺の鉄地蔵さんの身元に四四二年目に里帰り。八月二日朝七時過ぎに出発した。南海和歌山港、阪和道、西名阪、国道二五号、東名阪をへて、一度も道を迷うことなく二時半頃美和町歴史資料館に到着した。お地蔵様は再会をよほど待っておられてのだろう。学芸員の鎌倉さんの案内で町役場へ、加藤町長とは春以来のこと。法蔵寺にてお地蔵さんと再会。今日は町長さん、岩田さん等は内輪の方々とNHKと地元誌の取材のみ、静かにお詣りする。近くには蜂須賀交差点等々数多い。夜、六時と九時代のNHKローカルニュースでそのことが流れる。徳島も同様であった。
 三日、中日新聞の朝刊に掲載される。今日は一般公開。十時と三時に法蔵寺の出井住職と私の話。司会の鎌倉さんは「これだけはいると床が抜けるのでは・・」と、広い本堂一杯の盛況である。私は「蜂須賀家、その後」と題し、阿波徳島では家祖小六正勝、藩祖家政(逢庵)、初代至鎮という。それは豊臣から徳川に移行するのに特に逢庵の苦渋の選択があった。その後、藩政の基礎、塩、藍の専売で経済の基礎を作っていった。最後の殿様は蜂須賀茂詔。廃藩後イギリス、オックスフォード大学に四年遊学し近代学問を学んで東京都知事、文部大臣、貴族院議長、民間では東京海上火災の創立等の要職についたが当時の藩閥政治とはあわなかった。一方徳島県出身の日露戦争戦没者にたいし、一々後援していると話をした。午後も同じ盛況。今度は大勢の年配者のなかに総合学習の小学生六、七人がいる。前の空いた席に案内すると丁寧に挨拶しながら前に来て正座する。自然に話は子供達バージョンになる。さて、その子達最後まで全員正座で聞き錫杖の前で写真、スケッチとすまし、私に丁寧にお礼をいってくれた。
 了って、夕食会までの間、鎌倉さんが清洲城ほか戦国武将のゆかりの地に案内頂く。清洲城で自転車でやって来た三人の子供が「こんにちは」と挨拶してくれる。鎌倉さんは清洲の住人。小さい町故に教育は徹底していて、挨拶運動もその一つという。今夜清洲城は美和町同様夏祭り、阿波踊りがあるという。「信長公の家来は秀吉公、その家来は阿波の蜂須賀そんな縁で阿波踊り」と。江南市でも今宵阿波踊りが行われているという。因みにそれは蜂須賀党の根拠地、徳島市と姉妹都市という。数百b行くと戦国武将の遺跡が次々にある。五時にお寺に帰ると美和町出身の七人の戦国武将に扮した侍がデコレーションした軽トラで町中を練る。出発点が法蔵寺。錫杖を交え写真撮影。商工会主催の夕食会後、錫杖とともに一宿御世話になる岩田さん宅へ、そこには金屏風が設えられ、親戚、友人知己、ご近所の方々が錫杖とご対面に見えている。再度、町民グランドへ夏祭りも盛り上がっている。グランドの周囲に出店が、真ん中にステージが作られている。数えることはできないがグランド一杯一万人近くだろうか。中盤にして町長、商工会長等の挨拶、私どもが持参した小池正勝徳島市長の親書を披露、私が加藤町長に手渡し、続いて錫杖を披露して挨拶した。
 四日は鎌倉さんの案内で蓮花寺ほか戦国武将の遺跡を散策。蓮花寺には蜂須賀小六、家政公のお墓があり、門前には小六公の生誕地、尾張蜂須賀家は今も続く。福島正則の正則地区(村)は小学校が正則小学校、校章にも正則とある。高野山の六時の鐘は正則公の御寄進という話で話題はつきない。菩提寺におじゃまし正則公の念持佛、毘沙門天を拝ませて頂く。ちょうど蜂須賀家では錫杖のように戦陣で祀られたのだろう。お昼は名物きしめんを頂いて帰路についた。


八千枚修行記(二)

十八日
 目覚め良好、後夜は快適。それからがいけない。日中、初夜は眠くなる。今日面白いことを発見。座して眠るつまり船をこいだとき念誦は止まっている。よって、長ければ長いほど止まってしまっている。また、百回送りの房珠を忘れたり、逆に動かすことがある。二千五百回は房玉を先ず引き上げ五百回、次に両方の房玉を両方で一個ずつ引き上げていく、全部上がると千回、そして元に戻す。といった規則を作らないと止まってしまったり、逆になったりする。初夜の座の入護摩時に近藤夫人が来る。百八支を思い切り上げてあげると感激。しかし、これが十時間続くと思うと心配だ。
十九日
 あさ目覚ましより三十分ほど早い。ゆっくり身体をほぐし起きる。三座とも快調。だが、副住がやんどころない事情のため外出。昼から若奥さんと孫達が本堂を守る。たのもしいかぎりだ。孫に火が上がったところを見せてやろうとしてはりきったら、護摩の部分がうまくない。了ってお守りを書けるだけ元気だ。いつか慈救呪五千遍を試みたいともうが、まだ充分ではなかろう。この八千枚のカリキュラム、たいへん良くできていて、先ずは坐ること、そして集中力を養っていく。
二十日
 久しぶりの大雨。今日は健康状態、特に精進料理によるものを披露しておこう。先述の通り女房が頑張ってくれて、昔のように精進料理の違和感はない。でも、体はよく知っている。中川前管様の記述では便秘があったらしい。が、私は快食快便である。一日だけ少々下痢もあった。前管様のようにベジタリアンと雑食動物の私とは体質が全く違うらしい。高野山大学に入学したとき中川前管(当時上綱)の親王院に入門した。ところが下痢が止まらなくなり帰ることとなった。和歌山でステーキを食べたらとたんに下痢は止まったことを思い出す。精進ダイエットの効果は十日以来、体重が全くかわらない七十七、八sだったのだが、十九日三百グラム減少した。今日は二キロ余り七十五キロ前半になり加速度がつきはじめた。この調子で標準体重まで下がると良いのだがと思っている(二十一日は二十日に同じ)。身体全体がけだるい。これは多分睡眠状況が変わったせいだろうと思う。その証拠に修法はないのに夕方はすっきりしている。
二十一日
 慣れるにしたがって、お守りをどうお送りするか等々考える。まさに余念相交わりといったところ、二十一日の大師に感謝しつつ念ずると眠くなるの繰り返し。それでも一座の修法が五分とかわらないことを見るとそれなりなのか。これから乳木を投げるについて余り急がないよう練習している。炉の大きさに限度があるから、より早くでは溜まってしまう。本当は五〇〇枚ぐらい焚いてみると良いのだが。
二十二日
 加行成満が近くなったためか。修法の時間も五分と変わらない。何しろ私の修法は早いが取り柄、常々その限界に挑んでいる。そういうこともあって、ゆっくりした修法はだれてくる。支具(お供)も満杯にして本尊様にその誠意を伝えるという人、或いはお供りする量をケチる人もある。私は後者に属し、たくさん入れるのは嫌いだ。理由は結局は余ってしまう。そこで残余のお供えを炉に投げ込むのがおちだ。といって単にケチるわけではない。きちっと適量に合う量をお供えしないときがすまない。また、護摩檀配置する支具はミリ単位ではないが一pが違うと気に入らない。最高の使いやすさの位置というものを探ってある。これも一番短時間への道だから。といった風に時間を短縮している。それでもある修法を千座して三十分をどうしても切れない。それが限度ということになった。因みに初心者の四度加行生は三時間は充分かかる。この行の場合慈救呪二千五百遍があるからチョット寝てしまうと十五分ぐらいはすぐかわってくる。昨今の一座所要時間を書くと「ウソー」となりかねない。ある大徳がその時間を上げているが私にはどうしても納得がいかない。多分護摩を焚く部分に時間がかかるんだろうなと思う次第。誓っていうが私が手を抜いている分けでもない。また相応の時間を要しているのである。若い世代のためあえて時間は書かない。
二十三日
 三時前に目が覚める、今日は日曜何が起こるかわからない。もう半時間余りと思って眠った。起きるには問題なかったのだが、どういう分けか修法に散漫になってしまう。後夜は散々だった。日中にはやや正気をとりもどしたものの、初夜ではまた同じ。明日が加行の結願というのに。甲子の檀木が少なくなった。元に返って角材のもので焚く。燃えにくい、甲子の木のようにパッとこないが、今度は本尊段までもつ。積みやすさとその点はいいのだが、臭いが気に入らぬ。今日は朝から寒い、日中時より長い上下の下着を着込んだ。
気温は二十度たらずなのに体感温度はこうも違うか。ここのところ身体が火照っているときは暑いのだが、そうでないときは寒さを観ずるなにかへんだ。休憩時には冬の衣類を着込まないと寒くてかなわない。
二十四日
 熟睡したはずが後夜が散漫になる。今日結願というのにこれでよいのだろうか。日中に結願するも信者さんが来て護摩祈祷となる。横でゴチャゴチャいうので気が入らない、諸天段でとんでもないミスをやらかしてしまった。護摩だけは体が覚えていると思っていたのだが、これからが思いやられる。とはいいながら結願となった。