第258




八千枚護摩供体験記(一)


 六月一〇日初夜、前行(加行)開白
 一〇日朝五時起床、例のごとく、朝勤行に続いて護摩を焚く。加行に入って急に二五〇〇遍という散念珠で三座といったとき、気分的に参ってしまう。そこで千座に近づいた九七〇座ぐらいから、不動法は四度加行どおりにし、その後、この加行のとおり二五〇〇遍としていた。これ一つでも数を取るに念珠をどう扱うか、一番間違いにくい方法を考えねばならぬ。ここまでは伝授録にはないのである。もとにもどす。炊き終わると鐘楼門の鐘が鳴る、大勢らしい。
マンダラ霊場か七福神参りだろうと思って「何かの団体ですか」と聞くも「いえ・・」との由。そこへ遅れていたリーダーが登ってきて「七福神に行くので納経帳を・・」という。結局朝早くから十冊の大商い(実は帳が不足して十二冊だった)「朝から縁起のよい日」となった。昼前には見事な法螺、これだけ吹けるのは極楽寺さんしかあるまいと思った。大先達が運転して巡拝している。今日は甘露日こんなものか。
 加行への準備おくれにおくれ二時三十分を回ったところで始める。今シーズン一番の暑さ、そこへ外部の雑音を避けるつもりで戸を閉めてはじめる。開白なので当初に時間がかかり、散念珠に入った頃はもう眠気がピークになっていた。慈救呪になって暑さと睡魔で辛抱ができない。午後の護摩というのはほとんどない。朝はなんといっても目が覚めていくものだが、初夜の眠さはまた違う。副住が用達しに出てきた。無言行のはずだが「戸を開けてくれ」という。台風が近いというかなりの強風で涼しい風が吹き込んできた。やっと本調子になってきた。ところが灯明が消えてしまう。何度か着けながら入護摩へ、今度は初めての乳木、段木である。今までは木工県徳島の廃材を大川師が合わせた切ってくれたものであった。乳木、段木ともにノコギリを使ったものだ。言い換えれば規格品。ところが今日からは甲子の木、今春初めの甲子の日(二月二十五日)に伐採した杉の木だ。一番割りやすいところは箸のように細く割らねばならぬ乳木用、割りにくいものが段木用となってくる。よって、いびつの不そろい、その上どの程度燃えるのは判断ができない。やってみると案の定組んだ木々がひっくり返る。でも燃えぐわいはよい。今までより時間がかかる。護摩木に合わせて修法する。結果、終わったのは普段よりだいぶかかってしまった。その上終わってもまだ火の勢いは強い。座禅には歩く禅というのがある。真言、高野山には四度加行中、壇上参拝、三日に一回奥の院参拝とある。私はこういう伝統は健康管理をよく考えてあると思う。静に動の組み合わせである。当山は壇上参拝といっても運動にならない、それが伝統であったが、私が弟子の加行を見るようになって仁王門まで巡拝させることにした。みんなにやらせるのに自分がやらないのはと出かけることっとした。私の千座護摩の内、三百余座は仁王門解体修理中、護摩堂に仁王さん仮住まい。その間、拝んだものである。私にとって仁王さんが手伝ってくれたものだ。久しぶりに仁王門まではちょっときつかった。帰ると大川師が後かたづけ、明日の用意をすっかりしてくれてある。神供を始めるものの、神供檀を作ったのは一流伝授中、確か昭和五十四、五年だ。それから久しぶりだ。副住と忘れたのを思い出しながら修行。これからまじめに神供をしよう。今日からできるだけこのメモをつけようと思うがいったいいつまで続くことか。
八千枚は加行中斎食、正行は菜食ということになっている。加行中は四度加行を思い出せばよい。当山はお斎は精進、非時食(午後)は五穀断ちというのが伝統だが、今朝から完全に精進食、女房殿が作り、つき合ってくれる。おかげで息子たち家族が別棟で食事、孫は何でと思っていることだろう。精進といっても全くそれを感じさせない。昔に精進食とは違うようだ。メニューは女房殿がメモしてくれている。
十一日
 朝四時過ぎより入檀、どうもピンとこない。眠いのが第一ふだん寝ている時間だからしょうがない。甲子の木になれた。非常に調子がよい、特に百八支は炎があがらず、消えこまず適当に上がる。こちらも熱くない。台風四号の接近とかで雨が降り出し気温も高い。日中にはその暑さがピークだった。初夜は護摩堂の両側の戸をあけた。そこへ台風一過か涼しい風が吹いてきた。三座目にしてやっと調子が出てきた。朝からアカ汲み、粥を供え、日中は飯、汁、餅、果、初夜・洗米と決まりのごとく行う。終えて毛芝さんからスイカ、リンゴのお供えが送られてきたので交換。思いのほかつかれた。
十二日
 定刻入堂、昨夜は8時頃から眠ったため、今までより若干目覚めがよい。二三日で慣れるだろう。台風一過涼しいのも快適の一因。後夜の修法かかかる次第で順調、閼伽上げの水を一日使うことを応用して、房花(専用の駕籠あり)、香花用の樒を一度に切っておく机の上に用意することにする。これで護摩堂に籠もりきりになれる。後夜も快適ながら、日中でだれけ手しまった。当面、暑さとの戦いだ。仁王門まで壇上参拝、ざっと四十五分を要す。言うはやすし難しというところ。台風後の蒸し暑さにまいった。
十三日
 早くも寝過ごしてしまった。昨夜目覚ましをセットしたところ、思わぬ時間の設定でなり始めには気がつかなかったらしい。半時間ほどしてなっていることに気がついた。睡眠時間が長かったせいか、後夜の座は調子がよい。と思いきや日中、初夜は足が痛いは眠いはで散々。眠いときは散念珠に時間を食うことを発見、結局眠っているのだろう。寺内の事情で孫、有乗が本堂にきた護摩を見せてやるもののまだ何のことやら分からないようす。連れていた女房も護摩のことを知らないから大きく火が上がっているところを見逃す。壇上参拝に出かけたが足がパンパンになって調子が出ない三十三番までいって、仁王門、瀧等各所遙拝。
十四日
 目覚ましのボリュームを大きくした。すぐ目を覚まし時間順調。睡眠時間も充分なので後夜の修法は順調。眠らないと散念珠がたいへん早く、かつ充実している。といっても人間の身体どうも巧くいかないのが常だ。早朝美馬さんが火消し壺作ってきてくれた。
と思ったのは後夜のみ、日中、初夜は散々。特に日中は食事の後すぐということもあってか怠い。
十五日
 目が覚めもう時間だろうと思ってとき目覚ましが鳴った。出足好調につき修法も集中している。半伽座のままで一座を終えた。本当はこれでなくては八千枚などおぼつかない。昨日、法華寺さん団参、師は八千枚経験者と思っていたらお手伝いのみとの由。八千枚の怖さを聞かされる。でも、もう進行中。今朝、早く終わったので結衆の副住諸君に助法依頼を作る。お守りが書けないのでどうにかせねばならぬ。三座とも半伽座のままで一座を修すことができた。これから足が痛いと言わずトレーニングしなければならない。
十六日
 昨夜は寝付きが悪かった。といっても九時まで本を読んでいただけ。このような生活にも慣れが生じたのか、熟睡できるようになった。寝る前の身体特に顔の火照りにも慣れてきた。
 後夜の散念珠は昔、金剛界次第を始めた頃を思い出した。一息で百遍を誦えると十息で千遍となる。慈救呪ではそうもいかないがこの方法をもちこむと集中できる。ところが日中、初夜になるとそれが出来ない。以前のように眠っているのではないが体力がついていかないのか。甲子の檀木は一つ一つが手仕上げである。結果大小、形状様々、檀に組むのがやりにくい。今日は本尊段で百八支に奥の方へみんな崩れてしまった。五宝の包みが燃える直前、昔作ったままで一度も使ったことのない一bの火箸が初めて役に立った。何でもあったらよいものだ。体調は快食、快便、熟睡ともにうまくいっている。快便は中川前管はひけつして困ったといわれる。私は精進料理という気持はないが、それでも慣れていない身体が一番よく知っているのか、快便すぎてきた。今日になってやや下痢。特に悪いというのではない。
十七日
 昨日夕刻に慈光尼が来てくれお守りの整理、七時半までかかった。そのあと、時間を食って寝るのが遅くなった。目覚ましで起こされたが、気がついたら三十分遅い、その上本堂の香盤が盛れていない等々でだいぶおそくなった。十一時には近藤さんが来山予定それまでに日中座を終わらねばならぬ。あわただしい。日中座の終わりに西岡さんの組が来山。護摩堂へ入れてあげる。ちょうど百八支に間に合い感激の様子。終わるや近藤さん。午後は初夜が終わるとき、新居さん、阿南勢がみえる。ご祈祷。了って武市良二君が見える。お母上が亡くなられたという。連休には母を徳島に連れてかえるとはりきっていたのに、その話をすると喜んだ結果、血圧が上がって脳出血を起こしたらしい。行中に縁起でもない話だが、恩人の武市一夫夫人である。回向してさし上げよう。
 中日につき、神供をおこなう。先般大川師が竹を切ってくれたのでそれを使わせてもらう。 (以降、次号へ)

「卑弥呼」の話

先般、近藤義二さんから一通の手紙を頂いた。差し出し人は宮崎素園氏。この方のことは後述の手紙以外、存じ上げない。
 氏は「命を賭してのての願い」として「卑弥呼」の呼称が卑は卑しい、低い、衰える、へつらう。弥は久しい、あまねく、極める、広い、深い、大きい。呼は吐く、唱える、叫ぶ、呼ぶの意味である。総合すると「卑弥呼女王」とは「卑しさきわまりない女王」となる。このようなことが歴史学者は疑念を抱かず、字体を解明しないできたことへの疑問、憤りを書いておられる。私も「卑弥呼」学んだとき、字体について疑問を感じ「えろうなめられたな」という気がした記憶がある。その後「魏志倭人伝」を買っては来たもののそのまま積んだままになっている。八千枚がすんだら一番に読みたい本だ。
 氏によれば西暦二百二十年頃の中国は魏、呉、蜀の三国が覇権を争った時代、所謂三国の時代であった。そのうち魏は強大で呉、蜀と戦闘を続けながら、朝鮮半島をほとんど制圧した。一方、日本の卑弥呼女王は対岸まで魏軍の接近に危機感を感じた。二百三十九年魏国へ朝貢の使節を送った。奴隷十人、布地四反、巻き布二本を朝貢の印として魏帝(少帝)に拝謁献上した。呉国の東方海域牽制と韓国の鎮圧継続を考えた魏国は倭国の朝貢を喜んで受け入れた。それは壱岐、対馬の交易者情報から伊都に交易港を持つ北九州の中心国である倭国とよく知っていたのである。見返りに銅鏡百枚、錦地十六反、布地三百反、絨毯五枚、黄金二十一キロ余、真珠と鉛丹各十三キロ、大太刀二本という品々が贈られ、使者をつけて、伊都の津まで送り届けたという。この品々で表されるように将来有望な国の女王を「卑弥呼」と蔑視した名前で呼ぶのはおかしいというのが氏の論法である。
 氏がここまで言われるには確固たる裏付けがあるのだろう。私には分からない。が、若干疑問が残る。まず相手国を蔑視して呼ぶ外交上の風習はなかったのか。例えば我が国から遣隋使を派遣したとき「日出るところの天子、日没するところ天子に使いをいたす、つつがなきや・・」と。そのとき隋の揚帝はカンカンて怒ったというが、けっして小野妹子を殺していない。外交上の慣例と割り切っていたのではないのか。次に、貢ぎ物の返礼が多いのは大国を示す必要があったし、伊都の津まで送ったとしたら所謂スパイ行為ではなかったのか。因みに日本は中国に対し朝貢したのは卑弥呼だけではなかったか。あとは対等が原則のはず。だが、の言われるように「卑弥呼」というのはなめられている証拠でないかと思う。
 この事実を現代に置き換えて見ると共産主義国中国(共産主義は亡びてはいるがたてまいは)になっても中華が頭についている国、この国はかって周辺の国を夷狄(南蛮、北狄、東夷、西戎という四方を野蛮人と視る、真ん中に華が咲いたような中華の文明人)視し、周辺の国々の宗主国として君臨した。それらの国は属国だった。先般の領事館事件等々、今でもそう思っている風に思われることがありありとみえる。周辺国を見下す振る舞いは経済力が着いてきた昨今、より過激になる傾向がある。 その意味において、日本史上最初に出てくる「魏志倭人伝」に蔑称があるという氏の指摘、大いに共感する。先ずここからあらためることが日本の歴史認識の出発点ではなかろうか。

戦陣錫杖地蔵様と再会へ

 愛知県美和町岩田社会福祉協議会長さんの肝いりで、美和町歴史資料館の鎌倉学芸員が中心となって「町政四十五周年、法蔵寺・鉄地蔵(重要文化財)錫杖の里帰り」と企画され、鉄地蔵さんと再会できることになった。美和町はかって蜂須賀村といわれた。蜂須賀小六候は「太閤記」の当初から出た来る人物。豊臣家の家臣第一号といってよいだろう。故にいつもいつも難しい戦いを引き受けてきた。美和町史によると、桶狭間の戦いというのは誰が見ても戦いは不利と見られた。だが、前もって下工作したのは蜂須賀党だった。そのとき小六さんは鉄地蔵が持っていた錫杖を戦陣に携え、死を賭して戦陣に挑んだ。歴史に残る結果となった。
 その後、三日城で有名な墨俣城を建設し、蜂須賀候はそこの留守を預かることとなった。小六さんはいつも戦勝をもたらしてくれる鉄地蔵さまを墨俣城の守護としてお連れしようと、背負った。ところが鉄のこと、一丁ばかりでへばってしまった。そこで錫杖のみを携えたという。その後、蜂須賀家の闘いにはいつも携行された。秀吉から徳島をもらって赴任した。といっても長曽我部、三好の残党、平島には元将軍様(平島公方)のいる徳島を平定するのは並大抵のことではなかった。やはり戦陣錫杖が必要であった。それが当山に納められたのは何時のことか分からない。四百年の時間を経て、平成十四年八月二日、ちょうど夏祭りの日に鉄地蔵様と再会することとなった。

用語解説

初夜(夕方)後夜(早朝)
日中(午前中)加行(前行)
散念珠(数珠を繰りながら真言を唱える)護摩(火天、部主、本尊、諸尊、世天の五段で構成されている)