第256




八千枚護摩ーその二ー

 ものの弾みか。宿願が爆発したのか、先月号の本誌に六月十日開白、七月一日結願と書いてしまった。すると北海道の高橋明昌さんご一行が「当日参列したいので航空券の超割をとりました」との電話。醍醐寺の大川師の方でも護摩木の製作が進んでいるという。当の本人は「まだ出来るか」怪しんでるというのに。引っ込みが着かないとはこういうことだろう。こんな支えがあって可能なのかも知れない。とにかく四月二十一日には一千座護摩供が十年越しで成満した、その日が弘法大師のご縁日とは計画したことではなかった。
 焼八千枚は最後の座で焚く、その前に一洛叉の慈救の呪(ノウマクサマンダバザラダン、センダマカロシャダヤソウタヤ、ウンタラタカンマン)を誦える。即ち不動真言、十万遍である。前行二七日(二週間)で一洛叉、正行一七日(一週間)で一洛叉合計二洛叉誦する。私は一流伝授(真言宗の拝み方各流の一流を伝授するもの、私の場合高野山に伝わる中院流)の折、大阿闍梨の高見和尚に質問したことがあった。「千座護摩を成満すると一洛叉以上に必ずすんでしまう。その場合どうしたらよいか」「成満したら相談に乗ってやろう」とのことであった。だが、数年前遷化されてしまった。よって、恩師高野山大元学長、中川善教前管の学位請求論文『八千枚護摩供』にたよるしかない。すると先のとおりとなる。いまさら私は数洛叉すんでいるといってもはじまらない。中川先生をしてこのようにやられたのだから、その通りやると間違いない。とはいっても先号の冒頭、求聞持法とともに真言二大荒行と書いた。求聞持法は虚空蔵菩薩の真言百万遍を五十日間日誦える。一日二万遍、これを成満された我が結衆、成福寺副住、英徹如師は「一日寝る時間を惜しんでやらないと時間がない」と聞かされた。そのときは「たいへんだね」ぐらいでいたのだが、前行二七日(二週間)で一洛叉は一日三座合計四十二座に十万に振り分けるのに昔から一座二千五百遍。正行になると一七日(一週間)だから五千遍、一日一万五千遍、真言の長さを考えると求聞持法にかわりない真言の数、その上護摩が入る。だんだん怖くなってくる昨今である。
 また、食事に制限がある。先行二七日は精進食(この場合は非時食、即ち午後は食べないのが原則)正行は菜食(十穀を断ったもの)となる。まあ何かを食べさせてくれるので死ぬこともあるまい。ここは女房殿がたよりである。そんななか一流伝授時高見大阿の言を思い出した。「正行の一週間は出来るだけ食べない方がよい、それは焼八千枚の時、大小便をなくするためだ」と。「今はパンパースもあるよ」と開き直るつもりでいる。
 功徳は中川前管の先の書に曰く、『立印軌』に焼八千枚の功能として、「心に願求するところのもの皆悉く成就することを得、言を発すること咸く意に随い、攝召すること即ち至り、更に験法成ぜんとする者は、能く樹皮を摧折し、能く飛鳥を堕落し、河水を能く竭せしめ、陂池を枯涸せしめ、能く水を逆流し、能く山を移し及び動ぜしめ、諸々の外道の呪術力を制止して行わざらしめる」と。他の本にもこれに似たことが記してある。焼八千枚護摩供修行の功能、修行者には超人的な力を備えしめるという。が、文の当面は悉地の力点は世間におかれ、この世の願を皆、悉地成就させようと言うのである。相当オーバーな表現だが、十五世紀の願求と期待を知ることができるという。現代、そのまま解釈するとオカルトの類になってしまう。でもこの修法は正純密教のなかで相伝され、行者はそれぞれ謙虚な気持で修法してきたのである。修行の際の神秘的な事柄も淡々とのべられている。一般的にこの修法が無魔成満されるためには行者の努力(意志、知力、加えて周囲の応援)と諸佛の加持力が感応して、法界におよび大きな力になるとされている。今回は周囲の応援は充分。だが、行者はどれをとっても満足な者はない。とにかく、本尊様はじめ諸々の神佛のご加護あるのみ。

佛教徒の四徳目

一、コツコツ日々努力をしよう(正精進)
一、集中力を養おう(正定)
一、正直であろう(正語)
一、辱しみに耐えよう(忍辱)
  十善戒を実践して四徳目を全うしよう

日本国独立五十周年

 昭和二十七年四月二十八日GHQが廃止となり、完全に日本が独立した。それから五十年占領下の日本が語られることは少ない。占領下のイメージをたどると進駐軍、ジープ、パンパンetc。そのなか、今年よりはじまった学校五日制があった。実はひ弱な私が小学校低学年を山から麓の宮井小学校へ通学出来たのは五日制によるところが大きい。それでも何十日かは休んでいた。もしこの制度がなかったら成長が危うかっただろう。この頃、田舎の生徒達は二日間農作業だったという。この年はたしか四年生だった。何か記念式典があった。「これからは進駐軍と呼ばず駐留軍と呼びなさい」と担任はいった。二年経って、映画『ひろしま』が作られた。原爆被爆の惨状を露骨に描いたものだった。今思うと独立したゆえここまでの映画を作ったのかだろう。そのなか英語の出来る兄貴分が頭蓋骨に「原爆で死んだ」と書いて子供達に売りに行かせる。そのとき「ハングリー」と言えと教える。それを見た私たち田舎の子の唯一知る英語となった。その後、丈六寺で駐留軍を見て、我が友は近づいた「ハングリー」と。友の名誉にかけて全く意味は知らなかった。すると大金をくれた。言った本人も何故くれたか分からない。数日後、それを聞いた海軍出身の隣クラス担任は「独立した日本が・・・」と意味の分からぬことで怒鳴りつけた。我がクラス担任は単に「ハングリー」意味を教えてくれた。子供心に印象に残る光景である。この映画が今消えてしまったことは以前本誌に書いた。
 今、年表で調べてみると完全独立したとはいっても外国の独立記念日、解放記念日といった様相はない。それまで徐々独立が進んでいたのだった。この日を祝日にすべきという御仁もいるようだ。が、あくる日の「みどりの日」と連休になる以外あまり意義がないのではなかろうか。要は今、経済大国日本といわれる我が国が戦前の政府が間違った政策により国を敗戦で亡んだ。結果、昭和二十年から二十七年までの間、連合軍の占領下にあったということだけ忘れてはいけない。そのメモリアムデーとするならそれも良かろう。また、政治が間違った方向にすすむと国は亡びることも肝に命じておかねばなるまい。昨今、政治の無責任さ、無道徳さは国の亡びる道を進んでいるのではなかろうか。
 この日のために作られた歌があった。ときの担任が一生懸命に教えてくれたものだった「・・平和を守る日の丸が眉山の上にひるがえる。見よ独立のあさぼらけ、いざともに・祝わむ・・」前後を忘れてしまったがメロディとともにこの部分だけが頭に残る。確か富田中学の先生が作られたとか。正確に知っている方、或いは譜面をお持ちの方があったらお知らせ願いたいものだ。

ワールドカップ

 世界の不精者大集合、ワールドカップサッカーが今月いよいよはじまる。今までは一国でまかなってきた。が、今回アジアではじめて開催される大会は韓日共同開催となった。開催される都市、合宿が行われる町にはワールドカップに向けて学校給食のメニューやら生活風習やら、いやが上にも盛り上がっている。我が徳島は鳴門がドイツの合宿所誘致に失敗した付近から何とも盛り上がらない。元阿波藩の淡路島ではイングランドが合宿する。
サッカー好きの御仁は居ても立ってもおられぬのではないか。こういった合宿へ集まるサッカーファンは安芸市に集まる阪神ファンの数を上回る。と同時に世界から集まった連中の狂気はまたたいへんなものであろう。
 そんなとき静岡県清水市のロシアチーム合宿所の芝に誰かが除草剤をまいたらしいと報道された。平和な国日本の珍事とでもいうべきか。平和ボケ日本への警告というべきか。それは今月開催となった今、グランド合宿所は厳重な警備をするべきだと思う。除草剤程度で良かったが、地雷等が埋め込まれたらどうするのか。フーリガンをはじめそこまでやりかねない狂気に満ちた連中が日本にやってくるという。危機管理は絶対に必要だ。 
 世界はさておき、隣国韓国を知る最良の機会となる。韓国人留学生に韓国の地理・歴史の説明を受けてもピンとこない。原因は最隣国韓国を知らないからだ。航空機で二時間あまり日本の各地から二万人が飛んでいるにもかかわらず韓国の○○道等の大枠、都市名、その歴史、どれをとっても知らない。この最も基本的原因に日本統治下の呼び名を使ってはばからない日本人にある。数年前、ある会合で韓国から来賓ご夫妻が見えた。その折、夫は何度か日本来ているので日本呼称で呼ばれても返事していた(本当は屈辱的なのだろうが)奥さんは呼ばれているのに気がつかない。当たり前のことである。同じ漢字でも発音は異なる。それを平気でいる、こんな失礼な司会者ってあるだろうか。今ではこういう場合ほとんどが現地音で紹介している。だが、地名は両者の混同がみられる。ワールドカップを機会に先ず地名を現地語で発音する癖をつけることから始めよう。

長寿国日本

 五月十二日地元多家良町七十歳以上の敬老会が開かれる。当山は皆さんの長命健康を祈ってご祈祷をさせていただいている。先代の末期にはじめたことだが、かれこれ三十年余りになる。初めの頃は五十人余りだったと記憶している。今年は二百十六人。人数は約四倍になる。九十歳を超えた方が十五人、八十歳から八十九歳は六十四人もちろん中には入院中の方もいるが大雑把にいえば元気だ。この二世代だけで三十年前の敬老会より多い。七十歳から七十九歳になると農家においては定年はないから「まだまだ若いもんには負けん」という世代である。
 でも最長寿のおばあちゃんは九十五歳、数年前には百歳を超えた鷲の門再建の棟梁、二反地光雄翁がいた。今まで百歳を超えたのは翁のみと記憶する。三十年前でも九十七、八の方はいた。こればかりは天性であろう。が、三十年前は八十歳から八十五歳までにたくさん亡くなられ、八十五歳より百歳まではぼつぼつという年齢構成であった。今では先述の通り。この間のふくらみが長寿国日本を物語る。
 元気で長生きが長寿の願いであろう。医療制度の充実と食生活の向上、農機具等の作業改善等々たくさんの長寿要素はある。概して元気で長生きの命題を全うしている。夫婦で長生きというのもだんだん増えている。
 今年、明治生まれというだけで九十歳を超える。今後とも元気で長生きして欲しい。

余録

 河内順子氏の急な出馬によりたいへんご迷惑をおかけしました。とは申せ、共稼ぎのただの工場長がたった一ヶ月で十四万余票のご支援を頂きましたこと、衷心より感謝しお礼申し上げます。
恩師松長有慶先生の高野山法印昇進式と転衣式。土砂加持法会、その日の朝刊で選挙への道を知る。選挙の日より御開帳と続いた。今後ゆっくりするヒマもなしに八千枚護摩供。今年はそんな年なのかと思う次第。
 既報のごとく紅葉の芽が三月十八日に出始め、三月中に桜が終わる。連休後半の石楠花は四月中に盛りを過ぎ、今朴の木が花を準備中。連休中は梅雨を思わせる天気、ワールドカップの頃は梅雨明けの好天気といいのにと思う。それでも野鳥が来る日はそう早くない。小鳥の頭に時計が内蔵されているのだろうか。先般御開帳用の樒切りに高枝に昇るといきなり、やまがらの大群に襲われた。枝の先に巣があったのだ。中を覗くともうだれもいない。みんな巣立ちの時期にだったのかも知れない。だが、一度驚かせたから多分帰らないとは思うがその周辺は枝を切らずそのままにしておいた。