第255号




緊急提言、先号『日本人のこころ』の実践を

次期総理候補といわれた加藤宏一、悪役の筆頭といわれる鈴木宗男、正義の味方鞍馬天狗の化身辻本清美が一度に表舞台から消えそうだ。本県の前知事もそこは流行に後れていない。この面々全部私の同年配かすぐ下(辻本だけは別)であるから腹が立つ。明治、大正世代も悪いのはいたが、阿波弁で申せば「タッスイ」ものはいなかった。総理候補は常に身の潔白を保っていなければならぬのに、部下の管理不届きという。ここまで来ると本人がやらせたと勘ぐられてもしかたがない。宗男さんは自民党流のやり方を徹底したのか、それにしてもガラが悪い。一方、悪を追求したはずの人気者清美さんは天国から地獄へ、前知事にいたってはただ今塀の中。
 梅原猛先生は佛教的四つの徳目「精進」「禅定」「正語」「忍辱」をあげられた。わかりやすく「コツコツ努力する」「集中力を養え」「正直であれ」「辱めに耐えろ」の四つだ。先の四者、どの徳目が不足するのか。「コツコツ」はみんなやってきた。「集中力」はどうだろうか。集中力といわず、もとの「禅定」といった場合、精神を集中して、自らを振り返る。そして得た結論で行動する。皆さんこれはよくない。自ら振り返って考えているか、進退に誤りはないか、タイミングは正しいか。どれをとっても欠如しているとしかいえない。さらに展開した道徳律「十善戒」では「不邪見」戒がある。「正見」つまり正しくものが見えているか。邪見を持って見ていないか。佛教では戒、定、慧の三学という。慧は本などえられる知識、これも大切なことだ。これと峻別したものを定をいう。近代の教育は慧に片寄りすぎている。定は自ら禅定をもって得られる智慧なのである。「正直であれ」「ウソを言うな」を「十善戒」では「不妄語」「不綺語」「不悪口」「不両舌」に分ける。この四つ、さきの皆さんどれも思い当たる。「忍辱(にんにく)」は屈辱に耐えること、今日皆さんされている。今回のことで一皮むいたように成長するのであろうか。否、それは脱皮したようにあつかましくなるのが必至だろう。「忍辱」とはここでも禅定によって得られた「正見」の上にたった脱皮をいうのである。
 四つの徳目に「十善戒」の道徳律即ち「不殺生」「不邪淫」「不妄語」「不綺語」「不悪口」「不両舌」「不慳貪」「不愼意」「不邪見」がある。これをまもって日本人の道徳観を再構築しようではないか。

今月から学校がかわる

報道されているとおり、今月から公立学校では完全週五日制になる。また教育内容は新指導要領による。今現役の子供をもたない外野から見ると一、授業時間が少なくなる。二、総合時間なるものが出来て、系統的授業がおろそかになる。三、放課後と土日は親の責任等々が見える。一、時間数減。一つの科目で週一時間減ったとき、減ったカリキュラムで教えればいいものの、ついつい以前のレベルまで教えたがるのが教師の心理(これには受験という外的要因もある)。教科書は当然一時間減分のページ数になる、ところが欄外に小さく書いて補ってある。これが教科書会社にセールスポイントだ。そこに触れると時間数がたりなくなる。これは私が経験したことだ。そこで黒板に書く時間を削ってプリントに印刷して挑むことになる。そこまでやらない教師の場合はどうなるのか。二、総合の難しさ。これも私の経験だが、高校の倫理を教えていた。各思想家別に系統的に教える教科書が大部分だったが、一社だけ「自由とは・・」と総合的な編成のものがあった。それには東西の思想が頭に入っていなければならない。要するに教師の技量が問われるのである。その年県下で私だけが使ったが一年でやめた。教材をこなせないのではない。生徒に断片的に理解させる否をさとったからだ。これが全科目の総合となると教師センス、知識、技量が問われる。三、先生は生徒を見る余裕はない。先述の通りだと先生方は明日の教材研究で手一杯、放課後のことなどかまっていられない。よって、放課後と週二日は親に責任と相成る。
 一方、低レベルに歩調を合わせたカリキュラムが指摘されている。ある数学教師は「円周率を三と教えるなら、円と六角形が同じであると教えることである」という。あらためて作図をして六角形の周が直径の三倍であること考えた。目の鱗が取れた。本当なのである。指導要領が「ウソ」を教えろということではないか。立花隆氏は「昔は軍隊、現代は文部省によって国が亡ぼされる」とまでいう。古来日本の伝統は教育に熱心でいつも向上をめざしてきた。今回の教育課程の改正ではじめて低下をめざす。これからは複線式にしてより高い学校(クラス)と今回のような学校と二極分化が避けられないだろう。それが私学対公教育になるのが。学校選択自由になるのか。塾対学校になるのかまだ分からない。
 そんななかで一つだけうれしいニュースがある。中学の音楽で和楽器を演奏しなければならぬという。音楽の世界に岡倉天心はいなかった(天心自身音楽は西洋という)。だから、明治以来日本の伝統音楽をつぶしてクラシック中心の西洋音楽教育がなされてきた。明治政府は日本の伝統音楽をつぶすのに天平時代に輸入され平安時代に亡んだ呂旋法を復活させた。それはスコットランド民謡の五音階(ドレミソラド)と取り入れることですり替えた。そして日本古謡だという。これから間違った考えが正されるだろう。

Aくんがバイバイしてくれた

Aくんが両親に連れられてお詣りにきたのは五年も前のことである。最初本人は来ないで「ある夜、何があったか知らないが朝起きてこないので見に行ったら人事不省になっていた」という。高校生の彼は某病院で最新の治療をほどこし驚くほど回復して一命をとりとめた。それでも音信不通、五体が全然動かない。両親は毎年正月、Aくんを車いすに乗せて参拝くる。といってもご祈祷の間、本堂前の石畳でいる。それが寒いのがどうかを分からないようだ。やさしい両親はだんだんよくなっているという。「柳田国男の本を読むと両親が慈愛をもって接してやるとだんだんよくなるといってますよ」とはげます、一方で私も必ずA君に声をかけることに心がけた。だが、私には回復度合いが十分わからない。今年三月末参拝に来た例によって本堂前石畳に降りていくと心なしかAくんの目に力がある。そうはいって私を目で追ってくることはまだない。お父さんは「だいぶようなたんです片足あげろというとあげる。三回あげろというと三回あげる」という。私はそれを確認する勇気はなかった。ご祈祷終わって槇の下でしばらくお父さんと雑談していた。そこへお母さんが車いすを押してきた。車に乗せようとというのだ。車は座席が車外にでてきて、車いすからその座席に移し替えるとそのまま定位置に移動する装置が付いている。でも、この車は構造上、ドアを通過するとき、頭を下げなければならない。当初は両親が下げてやったという。その日は私の目の前で「下げー」と、ジット頭をさげる。ついでにお父さんは「足あげ」と号令かけた。足をあげる。「三回あげ」一、二、三回あげるではないか、驚きと感激を一度の味わった。いよいよ帰るときがきて、私はバイバイと手を振った。反応できるかなと期待した。なんとAくんお父さんの号令にあわせて手を振っている。だんだん遠ざかるなか、私は車を追って手を振った。いつまで振っているのかと思いつつ感激の涙をこらえて見送った。

焼八千枚護摩供の話(その一)

 それは求聞持法とともに真言宗の二大荒行といわれる。当山では戒賢和尚が太龍寺住職時代、求聞持法六回、当山に晋住されて護摩堂で八千枚を焚いたと父から聞いている。あと歴代誰にも記録はない。どちらも日がな一日座り込んで虚空蔵菩薩か、お不動さんの真言を唱え続ける。八千枚は普段の不動護摩に真言を数多く唱えて三時に修す。六十三座目に八千枚の護摩を焚く。その間最初二週間の前行は精進食、正行の一週間は五穀断ち、最後一昼夜は断食。干しあげた身体を火あぶりにするわけだ。その護摩木を切るには新春はじめの甲子の日に伐材すると決められている。今年は二月二十五日、宮崎氏に依頼し杉の間伐材を切り出してもらい、すぐさま醍醐寺に運んで大川住職に割ってもらうこととする。
 私は護摩修法一千座が成満に近い。ありがたいことに一千座の間、護摩木を割ったことがない。最初は敬宝尼、前坂明さんのほっと会組、続いて太尾茂樹さん、それから大川戒博さんと続けてくださった。元々服部徹龍さんが千座護摩を始め、「千座成満したら八千枚しよう」といいあっていたものだったが、六〇〇座余で体を悪くしてやめてしまった。彼は全部自分で護摩木を割ったと自負している。私は先のみなさんに支えられ、一座分も割ったことがない。おかげさまでというのが昨今の実感である。紙面を通じお礼を申し上げたい。私はこれを最も大切なものと考えている。その間、何度か下痢が止まらなくなるなど体調を崩し中断したものの、近々千座を成願となる。後半、三〇〇座あまりは仁王さんの応援があって焚かせてくれた。仁王門修復の間、仁王さんは護摩堂で仮住まい。今までこんな近くで拝んでくれたことはなかろうと毎日護摩を焚いた。おかげで仁王さんのお顔は少々色黒になってしまった。その後も仁王門修復のお礼と五大明王等(お不動さんほか七躯)の修復完成を祈って約一年続けた。その集大成として八千枚護摩を企てたのだった。だが、身体に自信がない。六十歳のおっさんのすることではない等々、護摩木を用意しながら躊躇した。体力と気力に自信のない証だ。そんななか、五月二十一日開白と決めた。そこへ私ども夫婦の仲人、徳島大学名誉教授、渡部孝博士のお嬢さんが(J子女史、選挙中ゆえ名前を入れるわけにいかぬ)が今回の知事選に出るという。本誌が多く出まわる頃は選挙戦の真っ盛りだろう。すると親戚会だのローラー作戦だの出ることが多くなる。いい口実ができ「やめた」といいたいところだった。でも、もう一度と日程をさぐってみた。六月十日は甘露日だ。何事もすべてよしとする。口伝ではこの日に始めよという。三週間後七月一日に結願となるではないか。こんなベストの日取りを知らないでいた。J子女史のおかげだ。とにかく、これで本誌に公表した。もう引っ込みはつかない。百余年目の大護摩のことゆえ、皆様にもぜひご参加頂きたい。修法の現場で一緒に真言を唱えるもよし、間接に祈願を申し込みよしするにもよし、生涯ご祈祷でいきてきた私は皆さんの願いを肩にかぶさせてくれることがエネルギーの源泉となる。そうでないと中途で挫折するかも知れない。来月にはすべて整えたいと思っている。

余録

 八千枚のところに述べたとおり、親戚のJ子女史知事選のためで四月は留守になりがち、ご迷惑をおかけします。結縁御開帳は二十八日より、御開帳中は山を下りません。
 今年春は二十日ぐらい早いようだ。本堂前石段を覆う楓は三月十八日にはもう芽がではじめた。例年は四月十日ぐらいだ。春休みになって小鳥たちがたくさんやってきた。ことに今年はウグイスが多い。本堂のお杜も何羽かがテリトリーを争っている様子、すぐ近くにいるウグイスに口笛でホーホケキョとやるとケキョケキョと威嚇してくる。私を仲間と思うのだろうか。五月二十日頃にホトトギスがやってくる。この方は声はすれども姿は見えぬという鳥、夜昼通じて鳴く。やかましくて寝られないは贅沢な悩みか。