第254号




「日本人のこころ」

私ども高野山大学同窓会徳島県支部は二月一日、徳島郷土文化会館で、哲学者、梅原猛先生の「日本人のこころ」なる学術講演会を行った。お経にならい如是我聞で綴る。とはいえ場内整理のかたわらのメモゆえ充分ではない。先生の近著『梅原猛の授業、佛教』を参考に纏めたつもりだが、内容の齟齬は私の責任である。
日本人はいろいろの思想、宗教を受け入れ固有のものをつくってきた。そこでもっとも古く純粋なものを求めると縄文文化にたどりつく、縄文文化は土器で有名だが、木造の方でも相当進んだ建造物があったことが分かってきた。縄文の魂は生きとし生けるものとの共存ということだった。一本の木も生活のため仕方なし一本きるというもので森の神様にはお礼をするというものだった。そして、魂は肉体から離れご先祖様のところに行く、しばらくあの世で今のように暮らす。良いことをした人は早くまたこの世に生まれからる。そうして無限の旅をする。
 そこへ佛教がやってきた。この原形に沿った佛教。真言密教、浄土教などである。実は私(梅原)は京都大学で西洋哲学をやってきた。ここでの学風は単に西洋をやらず西田先生は禅、田辺先生は親鸞というように佛教と関わりを持ってきた。そんななか私は空海の書に触れ目から鱗が落ちる気がした。空海の生命の絶対肯定、大日如来、人間を越える自然の全てに大日如来がやどっている。縄文時代、神様は杜にいた。平安時代には杜に寺が建った。天台でも山川草木悉皆成仏というように死の思想とはっきりさせた。往相回向と還相回向(民の救済のため生きている)。死ぬ用意、つつましい日本人、殺すなかれ、供養をしようとなる。
 江戸時代は幕府が佛教にかわって儒教を国教とした。武士は儒教を学んだ。庶民は寺子屋で佛教と読み書きソロバンを学んだ。その頃、日本の津々浦々まで普及した。識字率は七〇%ともいわれる。江戸期の教育程度が高かったからこそ、明治時代に西洋の学問を輸入して近代化を成し遂げることが出来た。
 明治時代からは寺子屋がなくなり学校教育となった。そのため子供のとき、佛教を学ぶ機会がなくなった。かわって修身教育が行われる。その中心は教育勅語でる。中身は儒教を変形した忠君愛国の思想、これに神道の思想がチョットだけ加わる。けれども教育勅語に本当の思想は儒教でも神道でもなく、実は西洋から取り入れた十九世紀の国家主義思想でそれを儒教と神道で少し色をつけたにすぎないものだ。かくして天皇教になった。政府は廃仏毀釈とともに坊さんに妻帯を奨励した。するとお寺が世襲制になって、本当の宗教精神を失った。この時代わずかに文学者、作家が佛教精神を伝えた。
 戦後は学校では道徳が教えられていない。
 そこで佛教に基づいた四つの道徳を説こう。佛教には八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の正しい道)と六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の悟りにいたる道)という徳目がある。この中から特に大事な、一、精進、二、禅定、三、正語(正直)四、忍辱 の四つの徳目を話す。
一、精進とはたゆまぬ努力である。コツコツとやること。人が見ていようといまいとコツコツ努力する。ゲーテは「天才とは努力する才能である」と。日本人がずっとやって来たことである。コツコツは必ずむくいられる。これが第一の徳目である。二、禅定とは心を集中すること。集中力があるかないかで人生が大きくちがってくる。イチローがコツコツ努力している。その上この集中力がすごい。第二の徳目である。三、正語(正直)嘘、二枚舌ははいけない。「ウソをつくと閻魔さんに舌を抜かれるよ」と子供の頃から教えられたものだ。正直者がバカを見ることがある。が、正直はキラリと光るものがある。四、忍辱(ニンニク)とは恥ずかしみに耐えること。忍耐とはチョット違う。侮辱されたり、軽蔑される。それに耐えることだ。釈迦は一生乞食した。有名になって人に崇拝されるようになってもやはり乞食した。乞食は人から侮られる、それに耐えることで一人前の佛教者になる。
 精進、禅定、正語、忍辱の四つの徳のとくを実践すればきちんと生きていくことが出来る。わかりやすく言えば「コツコツ努力する」「集中力を養え」「正直であれ」「辱めに耐えろ」である。うんと出世しないかも知れないけど充実した人生が送れる。

当山の秘宝「戦陣錫杖」の話

 NHKの大河ドラマ『利家とまつ』は利家と秀吉の出世争い中にある。野武士軍団六千を抱えた秀吉が一歩先んじている。それから一夜城で有名な墨俣城を築城する。秀吉が今様で言えばプレハブ工法でこれを築いた。築城後、秀吉が在番となり、蜂須賀小六はそれに従った。
 当山には蜂須賀家が使っていたという「戦陣錫杖」がある。制作年時は不明だが相当古く、大きく、美術的にも優れたものである。その紋、○のついた卍が蜂須賀卍の元祖だという。四、五年前だったか、小田原城攻め四百年記念展に小田原城博物館から借用依頼等々、ときどき美術展、記念展に借用を申し込まれる。ある時、徳島出身で愛知県在住の郷土史家から電話がかかって来て「愛知県海部郡蜂須賀村の地蔵さんがもっていた」と言われる。氏の帰郷時、来山という約束がちょうど台風に重なり車が通れない。しかなく徳島県教育委員会の文化課(現文化財課)で見てもらった。正直な話し半信半疑であった。平成五年、学研発行、歴史群像シリーズ『秀吉軍団』なる書物を見ていた。六十七ページのコラムに「正勝背負いし鉄地蔵」と掲載されている。それによると先述の在番することになったとき、かねて尊崇、武運を祈願していた鉄地蔵を蜂須賀の地から墨俣に運び移そうと、正勝は背負って運ぼうとした。ところが等身大で三十貫(百十三s)の地蔵さん二丁ほど運んだところで動けなくなった。ご本体の代わりに錫杖のみもっていくことにした旨が書かれている。
 先号に記述したように二月六日、旧蜂須賀村、現在の愛知県海部郡美和町から徳島刑務所等視察かたがた町長さん以下福祉関係の面々が来山された。鉄地蔵の様子等々お聞きするなか、美和町のパンフには「法蔵寺、鉄造地蔵菩薩立像。町で唯一の国重要文化財です。尾張地方には全国的にも珍しい鉄佛が十体以上ありますが、法蔵寺の鉄造地蔵菩薩立像はその中で最も古く鎌倉時代初め、寛喜二年(一二三〇年)の銘が残されています。またその錫杖は、桶狭間の合戦(一五六〇年)の際に蜂須賀小六が持参したことで知られ、以来蜂須賀家の家宝とされています」とある。当方の言い伝えは鉄地蔵を持っていこうとした時だけだったが、桶狭間の時すでに戦陣にあったものと思われる。
 できれば、美和町の皆さんと桶狭間の合戦以来、別れ別れの地蔵さんと錫杖を再会させたいと言いあい、別れたのだった。

『モンテンルパに祈る』最終回

 六月二十六日に大統領に面談、七月四日の独立記念日に大統領特赦、十五日帰還というスケジュールになった。その間、和尚は帰還までの事務の他、僧侶として処刑された人たちの遺骨収集をと企てた。といってもモンテンルパの墓地の遺体を発掘し、荼毘に付して遺体を持ち帰るという願いはとても乗船までに間に合わないだろうと思われるものであった。帰還の前日やっと許可が出て、日比両国の関係者で探すことになった。しかし、処刑者の墓標はなく土を盛り上げただけ、熱いフィリピンのこと半年もすれば草が覆い繁り、どこに埋葬されたのか分からなくなる。ここと思われるところはサトウキビ畑になっている。やっと見つけ人夫、比国の囚人十人余りで発掘が始まった。二年半しか経っていないのに、骨だけになっている。それを見た週間哀れとも何とも言いようのない涙に濡れた。比国軍から派遣されたトラック六台に分乗、四年前は石をも投げかけられないみちであったが、今は数多くの比島人の見送りがある。
 ー月日の流れは遅いようで早い。七月十五日午前十一時十分船室も決まって落ち着いた。みんなは見送りの人たちと喜びに満ちた別れの言葉を交わす。十一時半、十七精霊の遺骨は黒塗りの木箱に収め一等サロンに安置される。「サヨウナラ」「御世話になりました」振られるハンカチが白い花のように岸壁と舷を埋めている何時までも何時までも手を振る。もう恩怨も何もかも忘れ、祝福し、そして別れにくい、人と人の情にみんな胸が詰まっていた。この海が日本とフィリピンをつなぐ平和の海でありますように。まごころと、まごころでこれをつなごう。永遠にー。
 追記、私(加賀尾)が言うまでもなく、先般の問題は巣鴨移管で終わったわけではない。巣鴨からすべての人が自由の身に帰るよう、日本とフィリピンその他の国の方々に広く訴えお願い申し上げます。合掌。
 その後、和尚は日本全国各地を巡講、遺族の慰問を行う。昭和三十一年、米国に渡り半年間巡講のかたわら、カリフォルニア州在郷軍人会長、共和党委員長、国務次官代理に会見し、米国関係戦争受刑者釈放を嘆願し、成功した。その後、高野山真言宗、佛教会の重役を歴任し、大僧正、勲三等正五位、昭和五十二年五月七十七歳で遷化。

余録

『モンテンルパに祈る』がやっと終わった。これほど重い連載はなかった。私が最初で最後に和尚にお目にかかったのは高野山大学の卒業式、おざなりの祝辞のなかでキラッと胸に迫るお話しがあった。あとでモンテンルパの加賀尾僧正と聞く。昨年、靖国問題を綴っていたとき、「確か和尚と交遊があったはず」と高野山光明院加藤千世子大奥さまに電話をしたところ、ご本をお送りいただいた。この内容を要約するのはおこがましい。進めるうち年末にはとうとう処刑の描写を入れた。実はこの本の大半なのである。でも、終戦後こういう人たちがいたことを知らさずにはおられなかった。たったこれだけの文を綴るにも涙があふれるのである。先般高野山で生の話を大奥様から聞く、処刑台へは本と違うところもあるようだ。
二月二二日、恩師松長有慶先生が高野山第五〇三世検校法印に昇進された。私たち世話方三人が、この式典に参加が許された。地方寺院からは前例がないという。晴れの法印転衣式は三月一二日。