第252号




謹賀新年

年頭に当たって、今年ほど「今年は・・」といいたい年はない。昨年は不況の上に、同時多発テロで世界をダメにした感がある。その上、当山にとってはたいへん御世話になった人達が逝った。今年はこの反動というだけで明るい年でありたい。
 我が恩師、元高野山大学学長、高野山宝壽院門主、松長有慶先生が一年間お大師さまのご名代として「検校法印」に昇られる。三月十二日(火)「法印転衣式」が行われる。法印様とは大師の代務をするのだが、高野山では普通黒い衣を着て生活する。法印様になると緋色の袈裟、衣となる。転衣式は最初黒で参列し、緋の衣の着替える式である。一山の住侶と関係者多数が参列して古式豊かに厳かに行われる。因みに一年了って前管さまとなり、紫の衣に緋色の袈裟となる。その後、晴れの法会の数々がある。実は教え子会の代表をしている。法印様出仕の法会にギャラリーをうめなければならない。四月二〇二〇、二一日の万灯会に団参を計画したいと思っている。
 前の壬午年、六十一年前、私が生まれた、午には五日しかかっていないのだが、昔から我が家は午の歳としてきた。普通、干支のとりかたは節分を基準にする。とにかく還暦である。子供の頃、還暦を迎えた父は所謂「赤バッチ」と衣類、法衣に赤を使った。私のその年かと思う昨今である。近未来のこととして、護摩を焚いたのを通算すると、もうすぐ壱千座となる。実はこれが了って坊さんとして一人前になるために修行する「四度加行」の全ての行法を壱千座成満する(四度加行はそれぞれ百座、私の場合は護摩以外は数千座なのだが)記念して何かと思う時、真言宗の最も荒行の一つ「八千枚の護摩」が思い浮かぶ、でも体力が続くか等々自信がない。まだ決めていない。ただ今、自分自身にプレッシャーをかけている次第。遅くとも二月には決め、護摩木を伐採しなければならない。昭和四十五年住職晋山以来三十年の本尊様はじめ信者の皆様に可愛がって頂いたお返しにとは思っているのだが、はたして本尊様にさせていただけるか、自分の力ではどうにもならぬ。当山では戒賢和尚以外成満した話はない。
 二月には「冬季五輪」六月は「サッカー・ワールドカップ」と続く。米合衆国「冬季五輪」には同時多発テロ以来の暗い雰囲気を跳ね返すべく大会運営に邁進するであろう。「サッカー・ワールドカップ」は日本でも試合だけでも相当なもの、韓日ということになるとたいした盛り上がりになるだろう。この際、韓日双方新しい二国関係で仲良くやっていく方法を模索すべきではないか。それには団塊世代以下が中心となってやればうまくいく。両国とも戦前を引きずるとうまくいかない。また、後述する国が嫌がらせに出ることも考えられる。
 経済面は素人だが、昨年末から円安である。百三十円後半までいくともいわれる。さすれば外国に移転されて経営困難な日本の工場はつかの間の活気を取り戻すのではないか。そのつかの間に素早く構造変革が必要であろう。日本の工場は潜在的に優秀な技術生産力を持っている。一方、世界の工場化した中国はWTOに加盟して世界基準で取引しなければならぬ。それに対応できるだけの技術はあるだろうが、共産党政権という政治ではどうしょうもあるまい。また、沿海部の先進地と内陸部の格差は大きくなるばかり、やがて不満が出てきて何かあることはまちがいない。世界史上十二億という人口が一つの国を構成したことはない。また、日本人と同じくらいの知的レベルの人は日本人より多い。極優秀なものは欧米に留学して、漢字に置き換えなくともそのままビジネスができる。実は知的格差においてもとんでもない実験をしている国である。そこを踏まえて中国を論じなくてはならない。
 年末の六日七日、全国文化財所有者連盟の総会で上京した。総会では文化財保護予算の獲得と所有者が文化財を売却したときの免税処置の継続を決議し、翌日陳情となった。全文化財保護予算は七十七億円あまりとか。研修会のあとのパーティに文化庁長官をはじめ、文化財保護部の全職員が来てくれる。その席、文化財保護部長に「全予算が七十七億とは一桁違ってもいいのですね」部長「エエ」「文化庁発足当時ちょうど徳島県の予算と似ていたが、今は徳島県が相当多い。昨年IT化といって三桁の予算付けている。これらどこへいったか分からない。我々の先人がのこした文化財を守るのに一桁多くとも問題ないのでは?」「国の予算は地方公共団体ほど増えていないから、比率としては伸びている。これだけ緊縮がいわれているとき、今年も伸びている」「そのご努力に敬意を払わないというのではありません。」との会話。日本の文化財保護のため、私の主張が実現するのは何時の日か。先の先端技術に比し日本の伝統工芸といわれる技術はものすごい勢いです衰退している。私どもは伝統工芸のなかで生きている。法衣類、荘厳具、仏具等々簡単なものがすでにできなくなった。金偏、糸偏、特に針を使うものの、木偏等々後継者が少ない。こんな観点からでも私の主張は無茶ではない。今年とはいかないが気長に啓蒙していかなければならない。
 同時多発テロから進んだアフガン戦争は年末暫定政府をでき、復興への第一歩が進む。今月末には東京で閣僚級の復興支援会議が開かれる。あと現地の各派が喧嘩しなければ国際社会の援助で前に進むだろう。世界の内紛はパレスチナ問題、これからどう向かうのだろうか。足下では昨年末の不審船問題、広い海を偶然自衛隊のP3Cが見つけるわけがない。日米連携で某国の港を出た段階から監視していたのだろう。見つけてから沈没まで考えると二〇_機関砲で火災を起こした。普通の一〇〇トンクラスの船を同様にしても火災を起こすだろうか。三種類の機銃とロケット弾で応戦してきた。あとどうやら自爆のようだ。乗組員も自決か。某国は何の目的で日本に近づくのか。こんなに日本をなめた国が近くにあるのも事実。北朝鮮は相変わらず「日本のでっち上げ」と曰う。それにしても海上保安庁はよくやった。いつものことだ。
 今年の「サッカー・ワールドカップ」最中にこういうことをするかも知れない。西アジアの年が昨年なら、今年は東アジアの年になるかも知れない。テロは身近に来ている。


「干支(えと)の話(安岡教学による)」のお話  近藤義二

 干支とは占いではなく、易の俗語でもありません、元来暦の学問です。干は幹より従った文字でもっぱら生命のエネルギーの内外交渉や挑戦に対す対応の原理を示すものです。
干には甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、王、癸と十干があります。
支はえだで生命細胞の分裂からしだいに生体の組織構成として成長し、やがて老衰し、また元の細胞に還る文字で、十二の範疇に分けたものです。支は子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥の十二に分かれます。本来干支の意味と動物とは関係ありませんが、後漢以後わかりやすく動物をもって表すようになりました。十干の名は古代十日説法にみえる職能者が用いた物の資料や工具によって名付けられたもので、もともと日を数えるための言葉であったように思われます。十二支は十二聖数の観念として、その公倍数六十の干支の日を数えるのに用いたと思われます。
 次に二〇〇二年、平成十四年壬午(みずのえ・うま)のお話をします。
「壬」は支の内在するものが増大するかたちで、それ故になかの一が長いのです。胎児ならば大きくなって大きくなってお腹がふくらんでいる姿を表します。それが妊娠の妊の字です。また、「任」は引っ提げるという意味があり色々の問題を持たねばならぬところからイをつけて任という字になります。ですから壬の年は前年度からの諸問題を一掃増大しているため、任務・仕事がますます惹起してくるので、それと立派な処理することに任ずる人物がどんどん出て来て欲しいということです。
「午」古代文字では と書きこれは地表を表しています。「十」の「一」は陽気で「|」は陽気が地下からつきあげて、まさに地表に出ようとする象形文字です。ですから午は忤になり「そむく」「さからう」という意味になるわけです。壬と午を組み合わせるとこれをよく処理していかないと今後複雑に変化していくという意味です

「モンテンルパに祈る」加賀尾秀忍著 その五

 その後、和尚は各党の代議士に助命運動協力を働きかけた。
 運動は内地でもようやく芽を吹きはじめ、昭和二十六年三月三十一日夕刻、稲葉修ほか五代議士が渡欧の途上、連絡なしに突然モンテンルパを訪ねた。有期、無期の雑居房、死刑囚の独房と案内。厳重な二つの鉄扉をくぐり、奥の猛獣の檻ににた独房の扉が開かれ、一同は廊下の両側に整列した。山本猛夫代議士が挨拶、横山元中将が感激の答礼。それは同胞さえ、比島戦犯といえば「残虐の鬼」といわれ、頼るべきものは何一つなく、異境の檻でうらぶれ果てた人々が、たとえ非公式でも国民の代表たる五氏の訪問は戦犯にとって歓喜の極みであった。約二時間半の会見を終え、一行が振り返り独房を去るに鉄窓の格子につかまって群がり、重なりあって別れの挨拶をおくった。さらに五氏は私の部屋で木の香も真新しい十四の位牌に涙ながら薫香された。
 これを機会に、その途上、ローマ法王庁で法皇ピオ十二世に処刑免除方の依頼し「出来るだけ援助する」と約束をうけた。この頃、戦前からの親日家は別にし、戦争中反日ゲリラ隊長であったベラノ上院議員等フィリピン人の中からも処刑反対を唱えるものが出てきた。
昭和二十七年正月のある日、刑務所のマイクロフォンが比島の囚人一同にクイズが出された。正解者に商品を与えるという。「この刑務所で囚人でないのに囚人と同じものを食べ、獄舎に起居しながら、囚人と接している人は誰か」と。
 一月末ベラノ氏と日本人記者五人の来訪があった。後々どれほど光明を投げかけたか分からない。とりわけ朝日の辻記者四回訪問され、その間だいたい県別の集合写真を撮ってもらった。あとで県版に掲載され大反響になった。辻さんは戦犯の人々と懇談後の別れ際「皆さん・・」と絶句「さよならとはいいません・・またきます」と。
 「モンテンルパ」が比島の日本人戦犯の代名詞となり戦犯者を救えとの国民的声になっていった。それには先述来の積み重ねに加え、画期的になったのは渡辺はま子さんの「モンテンルパの夜はふけて」だった。代田銀太郎氏作詞、伊藤正康作曲による虜囚の思いをそのままに作ったものを彼女の手によってレコードにラジオに流れ映画になって、国民的な盛りあがりとなっていった。
 昭和二十七年クリスマス、渡辺はま子さんが現地の世話人デュランとともに来訪された。クリスマスは、現地の囚人面会日、現地の人たちが雲集する。会場の準備といっても死刑囚独房の廊下だ。かって南シナで十ヶ月の抑留経験のある渡辺さんは「皆さんやっと来ましたよ」と微笑まれた。前年クリスマスに派手に演芸会をした直後十四名の処刑者を出し、今年は何もしないと思っていたのだが、彼女の来訪でお粗末だが出来るかぎりの飾りつけができた。何時処刑台上るか分からぬ死刑囚と異国の獄にいつまでつながれるか分からぬ運命の青衣と赤衣の戦争犠牲者が彼女の歌を聴くうれしさはいかばかりだっただろうか。死刑囚は寝台に座し有期無期囚はコンクリートにござを敷いて座り、肉親の面会者を見上げるように渡辺さんを見上げる。 午前中は涙々で挨拶に終わり、自室で一行途お昼食をとってまた独房の会場へ行くと毛布で囲んだ衣装部屋が出来ていた。そこから渡辺さんが日本娘の衣装で出てくると割れんばかりの拍手と食い入るような視線。「荒城の月」「浜辺の歌」といよいよ「モンテンルパ」この悲しい歌をその戦犯の前で歌う「渡辺さんこの歌の終わりまで泣かないで」と祈った。了って、作詞、作曲者を紹介した。彼女は歌曲によってイブニング、シナ服と衣装を替える。その間伴奏の小高さんはアコーデオンを汗だくで引き続けた。フィリッピンの歌をタガログ語で歌うとガード婦警は感激して渡辺さんと二重奏。最後のもう一度「モンテンルパ」一同で大合唱。みんなこの歌は知っているもののみんなで唄ったことなどなかった。涙と、嗚咽と歌声が一つにかたまった。実は一同会議の上で代田、伊藤両氏に依頼したが、このとき初めてみんなの歌となった。終わりになってデュランさんが「今日のクリスマスと渡辺さんのご好意にめでて、日本の歌『君が代』を歌ってお別れしなさい」と。一同驚いた。みんな祖国に向かって歌い始め、一同目を閉じても涙々、途中で座り込んだ人もいる。この感激を録音で伝えようと「しばらく待ってください私たちは力を落としません・・」 としゃべりつつあついものに声がとだえてしまった。それまでこらえていた渡辺さんも舞台衣装のままコンクリートの上にガバッと倒れ泣き崩れた。この演芸会のあと渡辺さんの提案で座談会が催され、彼女が内地の家族とあった様子を話し、また、ここでの話を託された。帰国後、渡辺さんは直ちに北海道から歌謡行脚を企て、各地に散在する戦犯家族のためモンテンルパの実情を話して歩かれた。