第250号




1年を振り返って

新世紀をややホッとして迎えた。四月には五大明王と四天王二躯を美術院国宝修理所に出す。新年来百座の護摩で修理の無事を祈った。実は一昨年来ほぼ一年間ミレニアム事業の成満を祈り毎日護摩を焚いた。護摩木は醍醐寺住職大川戒博師に用意願う。紙上お礼を申し上げる。反面、本号の蓋棺録のほか毎号々々、その記載の要があった。私がお世話になり、頼りにした方々との別れだった。世紀のかわり目か。
 同時多発テロはびっくりした。貿易センタービルへ大型機が乗客を乗せたまま突っ込んだ。自爆テロを国際語で「カミカゼ」という。日本の特攻機は普通一人。決死の覚悟の上末路を理解していた。今回の乗客はそれを知らない。これは別ものである。イスラムのうち、アルカイーダは極めて過激な集団、日本のオームの如きカルト集団故可能だった。日本政府は画期的に対応した。泥縄の法改正である。二十一世紀に「日本国憲法」がなじまないのがはっきりした。今回も日本のマスコミに問題はなかったか。諸外国では飛行機がビルに突っ込むシーンの放映は自粛したという。ある放送局はタリバンのプロパガンダのような報道もあった。一瞬にして神戸大震災に匹敵する犠牲者を出した事件の首謀者オサマ・ビンラディンとアルカイーダ、極親密な関係のタリバンの代弁する必要はない。それなりのキャリアのあるアンカーのいるマスコミとの差が明白だった。
 日本政府は基本の思想がない。ブッシュさんが「アメリカにつくか、さもなければテロ集団につくか」とキリスト教論理で説くとき、佛教国日本は「中庸」を求め、不殺生戒をもってアルカイーダ、タリバンの圧政にも、アメリカの空爆にも逃げまとうのみの一般市民を救援はできないか。同じ難民救済もきちん思想をもつことがアーミテージ米国務副長官のいう「旗を見せる」ことではないのか。平和的方法以外アフガンに手を出したことのない日本だからできる。
 やっとアフガンの暫定政権の枠組みができあがった。敵対し殺し合いをしたもの同士、国家を再建しようという宿願が稔ったのだろう。
 それにしてもこの国のありようは理解できない。タリバンが九〇%支配していた。米軍の空爆後、二ヶ月でタリバンは崩壊した。首都カブールが落ちると国の人口の半分をしめるをパシュトウン人の反タリバン勢力が多数出てきた。議長に選ばれたカルザイ氏はパキスタンでの工作だから理解できる。が、所々で○○氏率いるという軍が割拠する。タリバンが本当に統治したのか。部族国家といわれる所以か。外にはローマに旧国王派、キプロス派もある。カルザイ議長は群雄割拠する勢力をまとめ、正常な国家に再建していくには長い道のりになる。
 師走の第一日、久しぶりの明るいニュース。敬宮愛子内親王の誕生である。その日は雲一つない空に満月が煌々と輝く、内親王の幸運を占うかのようだった。今の法律では皇位継承者の誕生でない。一時は皇室典範の変更をいいながら全然手をつけていない。これほど生まれくる子供に失礼な話があろうか。男子は生まれながら皇位継承者だ。誕生後、小泉首相、福田官房長官は「ゆっくり考えていけばよい」という。これは二つの問題がある。一、男系と規定した皇室典範の女性蔑視をそのままにする、二、生まれた内親王が天皇になるのはあと半世紀近く先。今の政府要人は鬼籍にある。先送りという無責任体質。日本史上女帝がいた、明治政府が男系とした。富国強兵策で戦争するのに女帝は不適ということか。もともと女性蔑視をしていたか。日本の伝統といい微妙にかえたのが明治政府だ。

蓋棺録

 岸田雄亮氏、鴨島町 且l国建工グループ社長 享年六十四歳 若い頃から最近まで参拝され「歩いてお山を登るとお詣りして降ったとき悩みは解決した」と。昭和四十七年得度、僧籍を得。年上の弟子第一号。得度記念に「もし、子供たちが崖から落ちたらたいへん」と本堂前石崖上のフェンスを四国建工作で御寄進頂いた。幸いこの崖を最下層まで落ちたのは学齢前の私一人。昭和五十四年鐘楼門解体修理を機に新釣鐘を奉納。当山の釣鐘は自由だ、戦後鋳造のため何時か老朽激化の可能性有。二つ釣って二倍の耐久力得「親子の鐘」となる。一方、会社は昭和四十八年石油ショックの直後、四国建工生コンクリート工場を建設。工場は益々飛躍し家業は順風満帆。だが、ご自身、体調を崩し、入退院を繰り返した。昨年の仁王門解体修理に屋根工事一式を御寄進頂いた。

『モンテンルパに祈る』加賀尾秀忍著より

 和尚のご本をそのままにと思う。が、今号は全体の三分の一の量、十四人一人々々の追悼になる。処刑された方々の追福菩提を願うが、紙面が不足。今回は要約とさせて頂く。
クリスマスから昭和二十六年の新年を迎え、モンテンルパは「もう処刑はない」といった穏やかな雰囲気だった。一月十九日、ガードが独房に来て「局長の用事だ」と連れていく。大半は「いよいよ減刑かな」思って普段の下駄で飛び出した。ただNさんは部屋を出てはっと気づき、国から送ってきた新しい下駄にはきかえた。Sさんはガードに呼ばれ、扉を開けたとき「処刑だ」と直感し「あとはよろしく」と仲間に託したという。
 一方、ブンニエ所長が私に「これから処刑です。すぐ用意してください」と。目の先が真っ暗になった。所長に書類をもらう。十四名、中村ケース(明らかな誤審)もいる。書類を確認、佛教関係者八人、あと六人がキリスト教信仰者。外には十四名が鉄の手錠をはめられ下駄履きのままたっていた。私の血が身体からさっと引く。そして刑場へ。
 控室には十四名はみんな目も動かさず、重苦しくじっと壁際に立たされていた。抱きしめたい、頬ずりもしたい、飛びつきたい、万感湧くのを必死にこらえ、私は一人々々の顔に目を向けていった。青服を着た若者十四人。下駄履きの素足は温かい血が通う。下駄は両親が、子供達が一人々々の名前を書き小包にしたものだ。
 陸軍少佐の死刑執行官が大統領の宣告書を読み上げ、比国人の通訳が日本語に訳す。要は「おまえを殺す」というものだ。死刑囚の名前が呼ばれ「ハイ」と死刑囚の確認手続き、その声は臆せず、あたかも自己の潔白を示すかのように声は澄みきって響き渡った。ただ、元海軍主計大尉Sさん、執行官は陸軍大尉という。「自分ではありません」と抗議した。その落ち着いた声の調子に執行官、比国人ともにびっくりした。執行官は鉛筆でその部分を訂正し、海軍大尉と呼ぶ。「ハイ」と簡単に認めてしまった。私は「ただ今、名前を読み違えられましたが、それをここで訂正するのは不都合ではありませんか」と執行官に抗議した。書き違えた名前の訂正は命令権者以外できない。しかし、執行官は返事せず、次に移ってしまった。私は大統領の訂正まで一瞬でもと思ったのだが。Sさんは罪状の土地へ行ったこともない、全く無実の人だけに本人も無念だろう。
 こうして執行宣言了る。「一時間の余裕を与える。その間に遺言状を書くように」と執行官。紙と鉛筆を受け取り初めて十四人は思い思いに机や壁によりかかった。生命を断たれようとするとき、咄嗟に鉛筆を突きつけられ、ただ心が焦る。書くこともないと私に話しかけてくる。「何かご家族に言い残されることはありませんか」私も一人々々に聞き手帳に控えた。Sさん「真相を知らずに死んでいくことは残念です。知らない土地で、知らない事件で死刑を執行されたことをよく伝えてください。・・・」Sさん「無一物です。妹に早く養子をもらうよう伝えてください。われ泣けば月もかなしくくもりけりモンテンルパをあとにしつつも。鳥の声聞きつつ登る絞首台に月も淋しくわれを照らせり(絞首台への車中と十三階段を登る前の作)」等々、一人ずつ詳しく綴ってある。
 遺言状を終って、さらに一時間、私とネルソン博士に最後の教誨の時間をくれた。キリスト教者も同じ日本人として一緒に話そうと思った。が、希望で佛教徒と別になった。話は生命の流転。家族へは力の限りを尽くすので心配されないよう。死ぬときは恨み、憎しみ、なにもかも捨て去りニッコリ笑って生死を越えて欲しい。平和な日本を願って欲しいと話し、最後に印明真言、南無阿弥陀佛の名号を唱え、臨終の印をお授けした。キリスト教徒から「早く来て」と、同じ日本人として一人々々に最後の言葉をかけた。
夜九時、比国政府の定めた刻限がついにきた。Mと係官が呼ぶ「はい」ガードの兵隊が腕をつかんで戸外の闇へ、私も続こうとする。所長は私が健康を害していることを知っていて「あなたはここの残って、みんなと話をして下さい」と何度もいう。同胞の最後を見届けたい。僧侶として引導し「同行二人」の通りどこまでもついていくと。「先生、私の死顔を見てやってください」とKさんの声、この叫びに応えないでおられない。故郷を離る幾千里、異郷で唯一人しかも元気な身体で、非業の死を遂げる友を。
 遅れて闇に出る。ジープの上から声、乗るやMさんの身体に手を回し「M君大丈夫か」「大丈夫です」と即答。同胞の温かい血が通うのもこれが今生の終わり。ジープはライトを消して墓地の方向へ。数分後に絞首台に登る人をなんと慰めたらよいか。ただ力一杯に彼を抱きしめるしかない。やがて絞首台についた。車から降りると執行の役職がそろっている。医師が脈拍をとって記録。手錠を解かれ、今度は両腕を鉄の鎖で胴に縛りつけた。Mさんはじっと自分の進み行く絞首台を仰ぐ。「ゴー」比兵の声、同時に双方から脇の下に手を突っこむ。「天皇陛下万歳」と叫び、力強い足取りで登る。十三階段登り詰めると直ちに黒い袋が頭からかぶせられ、太いロープが掛けられるが暗く見えない。闇に「ウーウーウー」と何ともいえぬ異様な音、続いて「ガターン」地をふるわすような大きな音、ロープは伸び、台上に立つ人の息づいていた頸深く食い入った。砕け散った魂に私は一心不乱に合掌し続けた。十五分たって検視。約により絞首台にかけよったが、顔には黒い袋、もう温容を見られない。遺骸は囚人の使役が白衣をかけ墓地に運んだ。
 私とネルソン博士は次の処刑者のためまた控え室へ。その状況を佛教徒とキリスト教徒の区別なく十四人全員の最後を詳しく記録されている。十二人目Kさん、銃剣で看守されながら友が一人づつ闇に吸い込まれていく姿を見守り続けた人た。その気持ちは想像を絶する。「水のごと澄める心を誰知るや、われ刑台に笑みてのぼらん」定席の要人に「日比両国の親善を祈ります」と。Sさん、当時負傷入院のため無実が明白だ。「ゴー」の声に「まて」呼吸を整え「よし」と一気に十三階段を登る。午前三時十分。残るIさんが刑場へ入ったのは三時半、Mさんの絶命が九時四十分、約六時間が経過。彼はいったん日本に帰りまた呼び戻された。待ち時間が永かったため死の恐怖が強い「お世話になりました。サヨナラ」「私はサヨナラしませんよ。身体にはつけませんが、心はあなたから離れません」最後の大轟音があった。二十日、三時三十五分。戦時下以外これほどたくさんの人が処刑されたのは異例である。
 四時過ぎ刑務所の私の部屋へ、二三人の戦犯が待つ。「ご苦労様でした。やられましたか」「やられました」たった一言。まず十四人の冥福を御佛のに願うべく読経した。一睡の後、六時、独房の人が昨夜から待っているという。ひそかに一同を集め「処刑された方々はみんな立派な最期を遂げられました」と簡単に報告。「先生は冷淡です」「私たちは死を覚悟しています。涙を越えているのに先生はまだ隠しておられます。もっと詳しく、本当のことを知らせてください」友の処刑を聞き、己が立派な最後が遂げられるかと、死の問題に悩んでいたのだ。できるだけ詳しく語った。
 次は涙を拭き々々遺品の整理。「明日は我が身」自分の整理と続く、誰いうとなくきれいにし、夕方は必ずシャワーに身を清め、洗濯したてのものに着替え、或いは読経。「今夜が最後かも知れぬ」と言い聞かせベッドに入る。身体が震え、呼吸が苦しく、冷汗が出て全身を濡らす。一睡もできないこともある。朝が来て独房の扉が開ける鍵の音に「スワー処刑」と飛び起きる。いつものガードだけだ。「ああ今日一日生きられる」