朝念暮念248号(平成13年9月18日)

『モンテンルパに祈る』


  先月号は賀尾秀忍僧正をよくご存じの高野山光明院の加藤千世子大奥さんに取材した結果だった。後刻、標記のご本を奥様からお送り頂いた。一気に読んでしまったものの二三日気分が晴れなかった、それは戦争の事後処理にももう一つの戦争があるということを目の当たりにしたからである。
 この本は昭和二十四年十月三十日、一人の旅の僧が沖縄の沖フィリピン海軍のLSTの中で戦没者の慰霊のため地蔵流しているところからはじまる。本誌数回に分け、文章を少々変えることをことを師にお許し願い掲載してみようと思う。
 船長に地蔵流しの許可を求めると気持ちよく許してくれた。船長は「それはいったい何か」と聞く、「海の佛陀だ」「シーゴッドですね」バスルームで身を清め司令塔から読経しながら地蔵尊を波に流した。その僧が連合国最高司令官の命令により、比国立戦争裁判教誨師を委嘱し、約六ヶ月間マニラへ派遣を命ずるー引き上げ援護庁復員局法務調査部長橋本盛四郎という辞令を受け、高野山東京別院副主管からでフィリピンに向かう加賀尾秀忍僧正だった。師は前任者が病気になり、最初に白羽の矢がたってから赴任まで「できれば辞退したい心境だった」だが、一方で戦争犠牲者として異国で囚われの身で悲惨な生活をおくる同胞のことを思い佛教徒として避けることができないと思って、全て佛さまにお任せする気にもなった。辞令から出発まで船便を待つ一ヶ月間、復員局、GHQ、本山、遺族、知己の間を歩き回り、予防注射でダウン、減刑嘆願書作り、戦犯のために守本尊夢違い観音像等々で忙殺されての出発だった。九月十日には関東の比島戦犯者家族と面談、比島戦争裁判の不当を嘆くもの、無罪を主張するもの、夫が帰らぬばかりの家庭の不和、長い戦争が終わり夫、兄弟、子供に会えると思った矢先、戦犯という罪に問われ再び生きて会えるかどうかわからない。世間の目は戦犯家族として冷たく、生活にも困窮していると訴えられた。『これを何とかしないで、どこに国家があるのだろう。どこに同胞愛があるのだろう。是が非でも何とかしてさし上げねばならない。身は一介の僧侶であるがこれを聞いて黙することはできないと勃然として湧いてくるものを覚えた』師は誓いを新たにされた。時は東京裁判も終わり、東条大将ら、七戦犯の死刑執行も前年の暮れに行われたあとだった。だが、一九四七年米軍がフィリピン共和国に裁判権を譲渡し、なお戦争裁判が続いていた。そんななか十月二十三日に出発して、先に沖縄の他、バシー海峡、マニラ湾と地蔵流しをして供養していった。十一月三日朝八時マニラに到着したのであった。
 マニラの日本戦争裁判事務所は市役所横の師範学校校庭に建てられたバラックの中にあった。到着後すぐ戦争法廷のすぐ隣のバラックでの寝起きだった。この中で仕事をしなければならない。それは先ず人を知ることである。比国の人と初対面の用意に相当量の扇子を持っていっていた。前の晩何本かの扇子に画と字を描く。遅くまで十何本も描くこともあった。弁護士会長セランさんに先ず会う「比国の弁護士は日本人の生命を保護するため国人から非難されるのもいとわず努力し、すでに無罪も十何人でている。現にバギオで日本人に殺されたと訴えた事件を自分で行って調べたところ彼はスパイのために殺されたということがわかった。とにかく神の教えに従って正しい行動をしているから今後どんなことでもいった来なさい」といってくれた。エンコ裁判長にも同様の扇子を渡し、月末に東京に行くというので知人を紹介、師はモンテンルパ刑務所所長への紹介状をもらった。牧師でありユニオンカレッジ学長であるネルソンさんにも会った。彼は日本滞在も長く日本語は流暢である。一週間後エンコ裁判長提供のジープでモンテンルパのニュー・ビリビット刑務所を訪問した。途中に見えるマニラ湾には日本艦隊の遺骸や、町中の爆撃跡の生々しいもが目にいった。ブンニエ刑務所長に会い、前任者安達僧正のおられた一室に本尊様を祀り、佛具を荘厳して、刑務所内を一巡、独房を回ってあいさつした。独房はT字形になっていて二人から三人ずつ入っている。ベッドが三つ棚のようになっているがとにかく狭い。戦犯の人々は日本から新しい教誨師が来たというので非常な喜び方である。師はこの人々とこれからどこまで一緒に歩いていけるか、おぼつかない気持ちであった。それは裁判の様子、刑務所の中を見るにつけ内地で想像していたより悲惨な生々しさで胸が締めつけられた。航海途上、法話についていろいろ構想は練ったが、一歩マニラの法廷とモンテンルパに入ってがらりとその構想を変えねばならぬと感じた。『導くーーーというよりも、いたわる、というよりも、それよりも、先ず、私自身、戦犯者とともに、この悲惨、苦難の道を、ともに歩く、ということが、私の使命でなければならぬと思わざるを得ませんでした。この日はちょうど処刑された寺本徳次さん、中野静夫さん、工藤忠四郎さんの一周忌に当たるという日で夕刻六時から追悼会がありました。早速、私の部屋に話しに来られる人がありましたが、私は生死の問題について、冷酷と思われるほどに、自己を掘り下げてもらうことに重点をおいて話しました。翌朝トラックでいったん、またマニラに帰りましたが、帰って、何かしらほっとするような気持ちを味わいました。この一事で、モンテンルパがいかなる空気だったかの一端がわかることでしょう』以下次号。
 これからに掲載方針として、である調の部分は師の文章をより私が要約したところ『 』内は師の『モンテンルパに祈る』より原文そのままとします。

勝野昭さんからのメール(H13.8月号に対する批判)

「朝念暮念」八月号の批判として勝野昭さんから八月十七日と二十二日にメールが届きました。戦後半世紀たってもかわらぬ思いに感激しました。その全文を紹介します。
 山田 戒乗さま ー前略ー お送りいただいた朝念暮念、今回は批判的に読ませて貰いました、遺族の一員としては、靖国神社は他人ごととして論じて欲しくはありません。
 生真面目であった私の兄は、駆逐艦初月ととも二十三歳でレイテ沖で戦死しました。童貞のままで生を終えました。単艦、十六隻のアメリカ艦隊と二時間にわたる交戦の末、三五五名の乗組員全員戦死という壮絶なものであったことが、アメリカの戦史から判明しました。私ども遺族は、佐世保の旧海軍墓地に数百万円の慰霊碑を建て、毎年十月に行われる慰霊祭には、全国から百名近い遺族が集います。
 慰霊祭は、海軍墓地近くの浄土真宗のお寺で、もちろん佛式で行われます。十月二十五日の命日祭には護国神社に必ず参拝します。それが、かけがえのない命を純粋な気持ちで捧げた肉親の無念をなぐさめ、感謝する唯一の方法であるわけです。
 私の家は、真言宗ですが、浄土真宗の慰霊祭になんら抵抗を感じていません、新年には氏神様はじめ数社の神社へ初詣でをしています。お四国さんへも二回巡拝いたしました、近く三回目を考えているところです。靖国神社は護持すべきである、英霊と霊界交信して欲しいこれが私の切なる願いです。
 五十回忌の慰霊祭には遺族、元乗組員合わせて二七〇余名が参集しました。これは異例のことだと旧海軍墓地の方が驚いていました。初月の機関将校で戦死された阪口健次郎中尉の実弟、阪口雄三氏の力作になる「誰もしらない、もう一つの レイテ沖海戦 −防空駆逐艦初月一対十六の殿戦ー」を近日中にお送りし、謹呈いたしますので、ご多用の事とは存じますがご一読賜われば幸甚でございます。

ユニバーサルスタジオ体験記

 大阪のユニバーサルスタジオ行く機会があった。バスの道中、担当委員さんからスタジオの巡り方を教えてくれる。一ヶ所だけは予約が可能。後便所は多いのだけれども表示が遠慮深い等々。徳島から三時間でスタジオに到着。
 さてさて、団体ではあっても実際会場を回るのは妻と孫の珠由の三人。入場料は五五〇〇円高いか安いかは中の行動にかかる。すばしこく多くのスタジオを回ると安くなる。また、朝開門と同時に入って、この日など夜十時までいても同じ、概して外資系の施設はどんぶり勘定でなかの各施設でお金払うことはない。日本の施設は入場料は安いが、各々に払うと結局高いものにつく、どちらがいいかは本人の考え方行動次第といえよう。まだ早いのに(九時前)阿波踊り並みの人出である。スヌーピー館に行く。ところが身長が一b七p以上ないと乗れないという。孫の珠由は三〇センチばかりたりない、全く面白くない。ぶらぶら歩くと鮫のジョーズ館にたくさんならんでいる。先ずここで予約を試みる。それでも三〇分はかかっただろうか。二時三〇分の予約が取れたもののさてどうしよう。またブラブラしていると前方に花火が上がっている。「あっちへ行ってみよう」人の流れに逆らわないように歩くと向かっているのは先はウオーターワールドだった。車内の予備知識でそこは三千人ほどはいれる。開演四十分ほど前である。小さい子供をつれてならぶのはつらい。なぜなら、人が混んでくると子供はは人のなかで埋没して息苦しくなる。一番良いのは肩くまをして人より高いところにいることだ。だが、それをするのは私しかない。適当に遊びながら「こんなことさせずにステージに入れてなぜらせないのか」と腹が立ってくる。同行の仲間も多くならんでいる。皆さん待つのが嫌いな御仁である。このウオーターワールドなる施設のボロさかげんに驚く我が家の台風で飛んでしまったトタンの方がまだきれいなほどの切れ切れのトタンをくっつけた施設である。入場になった。青いシートは水がかかりますと放送している。一反あまりあろうかきれいな水の池を中心の三方に野球場のような屋根と階段状ベンチ。汚い外壁だが水とベンチはきれいだ。多くが待っていたが全員入れたのだろうか、とにかく収容人数は多い。古代人みたいな格好をした若者が三人出てきて先ず盛り上げる。水をかけるというとバケツで本当にかける。よくしたものでかけられる方はポンチョー(雨合羽)を着ている。それでも頭のフードをとりのけて水をかける。これでもかと盛り上げていく。前座が終わるといよいよ本番。地球温暖化によって水位があがり人間の住環境が悪くなった。あるところにドライランドがあると求めていくと悪者が既に進出し始めている。そこで争い善者が勝つという同名の映画をアトラクションにしたものである。 そこに上下左右に動き回る水上ジェットスキーの乗りこなしがものすごい、ブルーのシートには完全に水をかける、陸上をジャンプする、停車は全て陸に上がってこの乗り物には狭すぎるほどの池で自由に乗りこなす。そこへ銃撃、爆弾による大爆発。トタンが本当に吹っ飛ぶ(すぐその部分は元通りになっていた)プールの水の上での大爆発。最後に飛行機がプールに落ちてくる。これだけでも入場料分はある。食事は各アトラクションにある。お昼時はたいてい満員である。あまり気にしないのなら道ばたの屋台でかってベンチで食べるのもよい。私どもは今日からはじまったというビュッフェ形式の食堂へ、幸いここだけはゆっくりしていたので助かった。続いてターミネーター館、ここでは同名の映画の立体映像版だ。それにしてもホールへ案内するまでの前口上が面白い。あちら流のオーバーなジェスチャー盛り上げる。本番の映画のなかにオートバイなど本物も出てくる。映像と実像がうまくからまっている。あと予約していたジョーズへ当初このアトラクションを見たのならものずごかっただろうが、先にウオーターワールドを見てしまった後では少々もの足りない。でも、鮫が襲ってきて石油施設が爆発する等々たいへんなものである。これだけ見た後施設全体を散歩する。アトラクションが売り物だがなかなかどうして、サンフランシスコ、ハリウッド、ニューヨークの街をもした町並みは相当なものだ。その中いたるところで簡単なショーが行われている。今日の入場者は四−五万人だそうだ。ゲスな勘ぐりを入れるとン億円が落ちる。それでもこの土地昔は工場だったはずだからここの生産力は工場とアミニティ施設とどちらが大きいのか。人々を楽しませるところから二一世紀の施設なのか