朝念暮念246号(平成13年7月18日)

山岡鉄舟と雲照律師

幕末、明治初年にかけておこった運動に廃佛毀釈があった。佛教が日本に伝来して以降、佛教と神道が融合し思想的には神佛習合、本地垂迹説を生み出した。儀礼的にも両者が密接な関係であった。神社には別当寺院があった(神宮寺の名で現代にとどめる)それを平田篤胤の平田神道などが神佛分離と言いだした。その子、平田大角は新政府にとりいり慶応三年神道の再興と廃仏毀釈を建議し、翌明治元年神佛分離令が発布された。これによって神社と寺院の分離、神社の社僧、別当の還俗、神体の権現・菩薩号の廃止がおこなわれた。これは隣県の金比羅さんを見れば一目瞭然である。歌は金比羅大権現なのに神社は金刀比羅宮、明治以前は象頭山金比羅大権現松尾寺といった。廃仏毀釈で佛像は全部焼かれ、松尾寺の名だけが残った。それが曼荼羅霊場十六番である。廃仏毀釈は今のアフガンのタリバンがパーミヤンの磨崖佛を破壊したのに等しい愚行である。明治五年には「肉食妻帯勝手たるべし」の令が出され、御修法の中止、諸山勅会の中止が通達された。
このような窮状に各宗派の傑僧達がたちあがった。真言宗では雲照律師がその代表である。昭和五十三年発行の浅草「浅草寺文化講座」中、大正大学、勝又俊教先生によれば律師は出雲の生まれ、十歳で得度、十六歳で四度加行、十八歳で高野山に登り伝法灌頂を受けた。三十八歳まで高野山、慈雲尊者の高貴寺等西日本の学の高い僧をたずね勉強した。特に戒律について勉強された。この間が厳しい修業時代。慶応二年、四十二歳の律師は高野山の改革に手をつけたが、逆恨みをかって山を下った、ちょうど先述の分離令がでた明治元年となった。何回も建白書を出し抵抗運動をした。しかし、明治政府の介入が続き、各寺院は当局の監督下に置かれるようになってしまった。明治七年から十六年、真言宗の統合と復興に時代だ。中心人物は律師。五十三のとき高野山に登り一山の法規を改正。高野山、仁和寺、醍醐寺、智山、豊山の五大本山の宗規を改正。東京、湯島の霊雲寺で真言宗合同の大成会議開いて真言宗を統一に深く関わった。明治十四年東寺に学校を開き総黌と名づけた(先々号記載、現在の洛南高校、種智院大学)、東寺真言宗きっての学僧が教鞭を執り、額を山岡鉄舟が揮毫した(現在高野山東京別院に残る)明治十五年には律師は宮内省に出頭して、宮中御七日の御修法再興願を提出、初めは却下されたが二度目受け入れられ、翌年厳修されることとなった。これによって廃佛の面目は立った。だが、失われた文化財はかえらない。この当時の様子を知る老僧の随行をした父は「官軍が攻めてきたらこれを持って逃げると金の枕をしていたという。その枕の大きさはわからないが金屏風、金襖を焼いて残ったなかから金を集めたものだという。そのもとになった文化財に値する屏風等いくらあったか想像できないくらいのものだ」と言っていた。内と外から破壊したのである。
 さて、山岡鉄舟は先号のように西郷隆盛と直談判してからであろうか、西郷の推挙で明治天皇の侍従になった。雲照律師とはいつから親交があったのかはっきりしない。明治十六年宮中の御修法が再興されるためには明治天皇側近である鉄舟の口利きがあったことは想像に難くない。三度目に後藤善猛先生の本「二十一世紀の羽ばたく若者達へ」を引用させて頂こう。鉄州は飛騨高山の時代、岩佐一亭に書の手ほどきを受けた。彼は武術に長じ、音曲に親しみ、佛道に帰依すること篤く、人呼んで佛の市右衛門」と親しまれたという。尾張、蜂須賀村の蓮花寺住職大道定慶から文化十三年(一八一六年)、弘法大師流入木道(じゅぼくどう)第五十一世継いだ。それは大師が唐で学んだ書を嵯峨、淳和帝に伝えたものからはじまるという。晩年鉄舟はその第五十二世を名乗る。
 そういった教養の中にあった鉄舟は慶応三年(一八六七)「ある日、小石川音羽の護国寺に参詣した、そのとき本堂の一隅かけてある書を何気なく拝見した。書体は遠く凡人を脱し、筆勢少しも作為なく、あたかも雲煙竜飛するようなものであった。ちかくによって拝見すると、なんと弘法大師のご手跡であった。私は大師の筆跡に傾倒してしまった。それ以後大師の筆跡に惹かれ、大師その人に惹かれ、筆跡を尊敬し、あんな書がかけるような人間になりたいと思った」という。大角が廃佛毀釈論を出した年のことである。
 再び、先の勝又先生の本にもどる。雲照律師が五十七歳頃になると、若い頃から修行し考えてきた宿願をいよいよ実現する時機が到来した。佛道には戒定慧の三学を修行しなければならない。とりわけ戒律が佛道の根幹である。戒律なくして佛教はあり得ない。先号で紹介した戒律復興者の後をしたい正法律を復興しようとした。明治十六年久邇宮邸で毎月の法話を初め、十善会創り、湯島の霊雲寺で発会式をあげた。「明治十八年護国寺の薬王院に止宿して有志の人々と正法の復興をはかることを語り合い。この時、青木貞三居士、山岡鉄舟居士等は新寺建立にのりだした」とある。鉄舟はこのとき律師の有力な外護者になっていた。この新寺は目白僧園として、また同年栃木県那須に雲照寺が建てられ、律師の僧侶と大衆への教化活動の拠点となった。このようにして全国に十善会支部をつくって、十善戒運動を全国へ広めた。この頃、律師は多くの本を書いたが、慈雲尊者の「十善法語」を再販したとき鉄舟が表題を書いた。鉄舟が明治二十一年没した。二人の間は生涯お互いに信頼しきった間柄であっただろうと想像する。
 鉄舟の没後、久邇宮を会長に知名な人々二百人あまりが律師に帰依し、目白僧園は着実に発展していった。律師は樺太から全国に行脚され十善の道を説かれた。明治三十七年日露戦争では佛教の慈悲の精神から敵味方戦死者の菩提のため、光明真言百万遍をとなえて冥福を祈り、戦争が終わった三十九年には八十歳の老躯にもかかわらず満州の戦地を巡って戦没者の供養をした。四十年には雲照寺に戦死者のため光明真言供養塔を建立した。四十二年には国民全体に徳教教育を提唱して徳教学校の設立を目指したが志なかばに遷化された。明治の佛教の危機に律師なくして今日の佛教教団はあり得ない。

映画「ひろしま」はどこへ行った。

 子供の頃、広島、長崎に落とされた原爆について、映画や写真で知るしかなかった。そのため私どもはそのことをあまり知らなかった。確か、昭和二十八年のことと思うが(年代については後述)何か国際大会があり、それにあわせて映画「ひろしま」を作った、それは悲惨さを強調したものであると両親が話していたのを子供ながらに記憶している。
今、記憶のままに綴ってみると平和な町広島、夏のある朝、二機のB二九がやってきて、突然の閃光、街は瞬く間に廃墟となり、逃げ惑う群衆。確か映画の半分以上がこの部分であったと思う。それはあまり同じような画面が続くのでいやになって便所に行ったのを覚えているからだ。後半には英語のできる頭のよいすてきなお兄さんが浮浪児をまとめ生活の面倒にていた、というより手下にして悪いことをしていたのか。原爆で死んだ人の頭蓋骨を集めそれに彼らは原爆で死んだだろうとおぼしきことを英語で書いて外人に売らせる。もちろん、売り子は身寄りのない子供たち。子供たちには「ハングリー、ハングリー」と哀願するよう教育して商売させていた。その売りあげで共同生活をしていたのである。当局へ引っ張られてもそのお兄さんは堂々と彼らの面倒みてやれるのかといっていた記憶がある。また、一方で後遺症に悩む人々もあったと思うが、「長崎の鐘」と混同しているのかも知れない。
 後日談、田舎の悪童、我々仲間は「ハングリー」だけ覚えたものの意味は知らない。丈六寺に外人が来た。、友は習いたての唯一の英語「ハングリー」とやってしまった。慈悲深い外人さんは千円札一枚をくれた。当時の最高額のお札である。それを知った隣の組、海軍上がりの担任は「日本人の恥云々」とおこったこと。その時、子供ながらあのしかり方はは間違っている。「ハングリー」の意味を教えてくれたらそれで良いと思った。今も思いだすいやな顔だ。だから六年生、昭和二十八年なのである。
 当山の信者さんの中には被爆者手帳を持つ方もある。ある男性がその日のことを語ってくれた。その人は当日休みで家にいた。妻は勤労奉仕のために広島市内に出ていった。ちょうど市中部に行き着く時間にピカときた。夫は妻を探しに出かけた。二日かかってやっと妻を見つけた。その時息絶え絶えだった。夫は「手の中で最後を看取ってやることができた。これでも幸だ」と夫はいう。「広島って映画の通りですか」「いやそんなもんでありますかいな」私はしばらく絶句したしまった。また、あるご婦人は日赤の看護婦さん、病院は郊外にあり、寮が爆心地、ドームの隣にあった。その日は夜勤明け、本来なら交代して寮に帰っている時間だった。だが、その朝は交代要員の友人が足で釘を踏み抜いたといってきた。ほかに要員がいないのでブーブーいいながら、代理勤務に就いた。そこでドカン。その友はない。死んだのなら遺骸がある。それがなにもないのである。郊外の兵舎でいた方はすぐ救助に行った「あの映画どころであるかいな」という悲惨な中救助活動された。「今その証に私がどこで病気になっても無料です」と元気である。だが、悲しいかな私の会話はあの映画がもとである。
 反戦、反原爆を唱える左翼政党の人がやってきた。「なぜ、あの映画を見る機会を作らないの」といった。僅か十年足らずの年齢差しかないと思うのに「知らない」という。どこへ行ったのだろうか。私どもの世代は映画「ひろしま」を見た。少なくともこの映画から原爆の悲惨さを知った。広島へいっても慰霊の心を持つ。私の高野山大学同期会が広島であった。慰霊碑の前で般若心経を唱えた。中年の僧侶ばかり二十人あまりだから迫力があったことも事実だ。だが、その迫力の大半はに同世代に共通する慰霊の心だったと思う。原爆の日に近く、我々からみればダイインするような変な集団もいた。その般若心経の間周辺のみんなに緊張感をもってよってきた。その原動力となったのは直接知る人以外は映画「ひろしま」によるところが多いだろう。それほどインパクトの強いものであった。我々世代の高学年は全員見に行った。理屈よりあの映画ではあるまいか。

 一冊の本『小松島市 新風土記』 小松島市発行 非売品


 編纂委員の岩野好治さんから頂戴した。岩野さんは「中津峰山の観音さん小松島へ」を五ページに渡って執筆されている(或いは別のところもあるかも知れない)一、小松島へ上陸 ここで当山の由来をうまく纏められている。二、小松島へ出開帳 実は当山に出開帳についての記録は何もない。本堂の縁の下には出開帳の御輿が収納されている。それとて住職が学齢期に達しない時の記憶でしかない。それを記憶と聞き書きでまとめて頂いた。三、今なおともる観音常夜灯 「小松島に五軒以上の火事がないのは中津峰山の観音様のおかげ」という言い伝えがある。防火の観音さんとして今も町内会の人々によって常夜灯があげられている。この話の記載がないので本誌に書き添えたい。旧中町四丁目の町内会は大正十二年以来毎月当番が火伏せのお参りに見える。ボヤとまでもいかない危ないことがあると「誰が当番だ」となるので欠かすことはできないとみんなの防火意識が高い。そんなわけで八十年近く町内に火事はないという。
 また、大阪城天守閣による豊国神社調査記録も掲載されている。その棟札に尊海上人の名がある。実は当山の観音様は豊国神社横と言われる豊林寺に一度おまつりされた。そのときの住職が尊海上人とある。上人の経歴を調べると豊国神社、豊林寺のことがもう少しわかるのではないか。当山にかかわることを臨市の風土記にお書き頂いたことは無上の光栄である。しかし、昔は同じ勝浦郡同じ風土で生きたことがよくわかる。
 手前のことばかりになったが、四国一の港を持つ小松島市の今昔が詳しく書かれていることにも敬意を表す。

余録

  今年は空梅雨というのか、男性型というのか少々かわった梅雨である。四万八千日の天気が心配だ。先号のPR欄には四千八百日となっていたお詫びして四万八千日に訂正します。といっても賢明なる皆様はとっくにご存じのことと思われます。