朝念暮念第245号(平成13年6月18日)

山岡鉄舟と勝海舟

 先月号洛南高校校長、後藤善猛先生のご本「21世紀へ羽ばたく若者たちへ」を紹介した。そのなか、西郷隆盛と勝海舟の談合によって、江戸の戦場化はさけられたという歴史書の常識ががある(「今問題の新しい歴史教科書」にもこうある)。この本にはそれをしたのは山岡鉄舟だとある。私だけの不勉強かも知れないが、それを知らなかった。
 この本によると山岡鉄舟は天保七年(一八三六)幕府の旗本、小野朝右衛門高福の四男。小野家は代々六百石。母親、磯は後妻で最初の子供が鉄舟。幼少の頃から剣を習う。十歳のとき父が飛騨高山へ郡代として赴任。一家は高山に移る。七年後父が没し江戸に帰るまでが鉄舟の青春時代、剣の修行と岩佐一亭に書を習う。一亭は武術、音曲に長じ、佛教の帰依深く、尾張の国蜂須賀村蓮花寺大道定慶から文化十三年(一八一六)弘法大師流入木道第五十一世を継いだ師匠だった。鉄舟は一夜に千文字書いたという逸話がある。後、鉄舟は江戸、音羽の護国寺で弘法大師の手跡の出会い。「あんな字が書けるような人になりたい」と自分の理想とした。そうして大師の真跡を求め僧俗を問わず広く交遊した。そのなか雲照律師との出会いもあった。話をもどそう、嘉永六年母が翌年父が没した。
 江戸の帰って、山岡静山のもとへ槍を習いに行った。その年静山が没。彼の実兄高橋泥舟から養子にとたのまれ、山岡英子と結婚し山岡鉄舟となる。勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟を幕末の三舟という。ともに武芸、書が達者で将軍慶喜側近だった。幕末鳥羽・伏見の戦い後、東上してきた官軍との間で、幕府内は主戦派と和平派の分かれた。慶喜は百万の江戸市民を戦禍に巻きこんではならぬ。それには自ら恭順の意を敵大将西郷に伝えねばならない。将軍側近海舟は泥舟に白羽の矢をたてた。ところが泥舟が江戸をでると主戦派がどうでるか分からない。当時ボロ鉄と評価がもう一つの鉄舟行かせた。身の丈二b近く、体重百s近くの大男の上、剣、槍の達人。官軍が制止しても睨んだだけでひるんだ。「鉄舟風を切る」に「江戸を出て品川、大森を経て六郷川を渡れば官軍の先鋒、左右に皆銃を持った兵隊である。道路に両側に官軍が所狭しとばかり立ち並んでいるなかを進んでいった。悠々何くわぬ顔で突破していったが、誰も阻止する者はいなかった」という。
 駿河に着き、西郷と面談した。そのとき五つの条件が出された。慶喜が恭順の意を示す。江戸城を平和に明け渡す。兵器を渡す。最後に慶喜の身柄を備前に預けることだった。最後だけはのめない。「西郷さんは私と同じ立場にたったとき、島津お殿様を他家へ預けると言われたら、了解しますか」とはねつけ、後の四条件は必ず守ると約束した。
 かくして江戸城は無血明け渡しとなったのは歴史のとおりである。が、この話は勝海舟がしたことになっている。これに驚いて皆さんに披露した次第。「おまえがやったことなのに、どうしてそのことをいわないか」と聞くと「勝海舟がああいっているのにそれを自分がいったら、勝海舟の顔に泥を塗ることになるからだ」と平然としていたという。「命のいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといったような始末に困る人。ただし、あんな人でなくてはお互いに腹をあけて共に天下の大事を誓うわけに行きません」と西郷に言わしめた。
明治五年、西郷の推挙で天皇の侍従となった。彼が侍従となったことで、佛教界、或いは日本の文化財は助かった。十三年無刀流の一派を開き、禅では修養を積んで大悟を開いて天竜寺の適水和尚から印可を受ける。

ハンセン病訴訟判決と控訴断念

 五月二十三日夕刻五時五十五分、朝日系のTVニュースを見た。ハンセン病訴訟判決を国が控訴をするかを見るためだ。その前に訴訟団と小泉首相が会った。訴訟団は「小泉首相は控訴しないと確信している」という。だが、このテレビ局は「国は控訴後に和会」であると報じた。それで一端テレビから離れた。
 再び見る。訴訟団の万歳の声。よく分からない。次々放送局をかえる。小泉首相が「控訴をしない」と。官房長官が記者会見で控訴しないと明言した。先の誤報を知りやっと頭の混乱が納まった。私は国はハンセン病判決でハンセン氏病患者、元患者への諸種の迷惑は認めるだろう。が、憲法違反という部分は今後の法体系にほころびが出ることをおそれ控訴するだろうと見ていた。その先入観と冒頭のニュースで頭が固定化していたのだろう。「ああよかった」と私はこのニュースに感動した。
政府、国会、マスコミの反省はさておき、一般の私たちはハンセン氏病、癩予防法、その結果患者元患者の実体をほとんど知らない。今号、一冊の本で紹介する「宿願の旅路」(著者等は後述)にドクター・ハンセンの生涯、ハンセン病といわれる所以、ドクター・フェジェがはじめて特効薬を見つけたカービル・センター、著者が実際に旅をして記録している。私の手元では唯一のハンセン病の集大成書である。この本からハンセン病を勉強しよう。一八七三年(明治五年)三十二歳のノールウェーの癩専門医ドクター・ハンセンは今までの遺伝学説を覆し、癩病菌を発見した。後医学会で癩病をハンセン病と記述、今ではこの名でよぶ。しかし、病原菌は見つかったものの治療方法は進まなかった。ハンセンはノールウェーのハンセン病をを統括する。ベルゲンの丘の上にハンセン病療養のため三つの病院がつくられた。ここでの隔離は非衛生的な家族生活のなかで感染を防ぐことと、患者を衛生的にあつかうという目的のようだと著者はいう。ここでの患者は毎朝港で開かれる朝市に新鮮な野菜魚を買う自由が許るされていた。こうして全ノールウェーから六百人の患者が収容され、最大時は三千床だった。ノールウェーでは一九五一年以来五〇年新しい患者は出ていない。三つの療養所はハンセン病博物館、他の病院へ改装、ベルゲン駅の一部になっている。
 アメリカ、ルイジアナ州に通称カーヴィル・センターがある。その施設は隔離時代からある。同センター医師ファジェ博士は一九四〇年代(昭和十五年頃)結核患者に開発されたスルフォン剤に目を向け、その一つプロミンの投与を熟慮した結果。一九四一年三月十日ハンセン病患者に初めて投与した。病原菌発見から六十八年後のことであった。ルイジアナ州の旧家の娘が一九二八年ハンセン病と診断されここに来た。同時にルイジアナ州立大学の学生の入所者がいた。五年後恋に陥り、二人は病院から逃げ出した。まもなく男の病状が悪化し、自発的にカービルに戻った。二人は再度退院できるとは思えなかった。二年後ファジェ博士のプロミン投与に二人は志願した。細菌検査に陰性を示しはじめ、遂に完治が宣言された。一九五〇年その事実を書いた「カーヴィルの奇跡」が出版され、ベストセラーになった。アメリカでは一九五〇代までハンセン病と診断されると居住する州、或いはカーヴィルに法律執行官によって隔離場所に連行された。ここでは病院に閉じこめられ外部の接触がほとんどないまま皮膚をひっかき落として十二ヶ月間陰性を示すまで収容が義務づけられた。患者は郵便物は消毒され、選挙権もなく、逃げ出すと逮捕され、施設内の刑務所に入れられた。今は「問題なく人権を守られ民主的」という状態になっているという。
日本でも明治四十年から隔離政策がはじめられた。一度入るとでてこられない等々マスコミ報道に詳しい。昭和二十四年吉富製薬がプロミンと同じ成分を独自に開発しプロトミンという商品名で、さらにプロトゲンの薬名でダブソンを発売した。かくしてハンセン病は治る病気伝染の弱い病気と位置づけられた。この時点で手を打たねばならなかった。だが、日本では平成八年癩予防法が廃止になるまで収容されたのである。行政と国会がサボったとされたのはこの点である。
「宿願の旅路」のドクター・ハンセンの項を読んでいてふと感じた。西洋に中世キリスト教社会では癩病は追放されるべきものだった。旧約聖書レビ記十三ー十四章に癩患者を「汚れた者」として社会から追放する律法がよりどころとなり、後世にそれが隔離となった。思うに古来日本ではこの思考の素地はない。私はハンセン病患者が忌み嫌われていたことを否定はしない。しかし、古くは光明皇后は癩患者の膿を飲んだという逸話を持つほどに癩対策に力を入れた。今、四天王寺は悲田院という福祉施設を持っている。これは聖徳太子の時代にできた施設に由来する。鎌倉佛教の内、新佛教のお祖師様は大河ドラマ「北条時宗」の様に喰うに困っていた。その頃旧佛教勢でも改革が叫ばれ、戒律が復興される一方、慈悲行即ち社会福祉に目を向けた。先号に紹介した大悲菩薩、興正菩薩は戒律の復興とともに癩療養所をつくった。何しろ旧佛教は経済基盤が違う。この時代今様ならホスピスというべき施設が津々浦々に多くできた。このなかに癩患者が多くいた。お互いに光明真言を誦え生死を全うした(本誌二百号に副住が書いている)。それは自他平等の佛教世界であった。キリスト教における排除の論理はなかった。明治政府は古来から伝統を無理に排除して無批判のうちに西洋を模倣してきた。それが今日の悲劇が生まれたと思えてならない。模倣であるが故に半世紀前にとっくに治る病気、伝染の弱い病気、人間の九十五%免疫を持っている病気ということが分かってからも抜本的な対策をしないで平成八年まで癩予防法を存続させた。本家の西欧ではとっくに解消しているというのに。

一冊の本「宿願の旅路」武市匡豊 心泉社 二〇〇〇円

 「小学校の同級生にすごい大物がいる」と山麓の坂口甚四郎総代に聞かされた。その方が宮井小学校の大先輩、武市匡豊氏である。氏は大正九年(一九二〇年)丈六に岡田家に生まれる。幼名仁一郎。昭和十五年より終戦まで軍役に服し、二十一年徳島新聞入社、三十一年(社)徳島新聞専務理事、三十五年同社退社。翌年エーザイ鞄社、五十八年専務取締役。その後、日本製薬工業界広報委員長。製薬関係の国際機関、日本代表。代表取締役相談役、相談役を経て平成六年顧問、平成十年有志とともに「Quality of Lifeの会」創設、コーディネター就任、現在に至る。
 この本は氏の宿願を実際に行って、見て、聞いて検証するという紀行とも記録とも言い難い旅から発想される氏の生き様である。先ず徳島新聞時代に紀伊水道でおこった。海上火災の徳島県人を助けようと自己犠牲をかえりみず厳寒の海へ飛び込んで殉職されたデンマーク、クヌッセン機関長の話。筆者は対岸高野山で知った事故だった。氏はジャーナリストの目をもって海南町浅川、事故現場に近い日御碕、クヌッセン機関長の故郷デンマークの田舎町へと旅する。それぞれ違った人情検証しながら海という共通点を発見する。第二は先に紹介し、人類に光明を与えたドクター・ハンセンとハンセン病のこと。第三は同じように治らない病気とされた結核の特効薬を開発したドクター・トルドー見つめていく。記者時代の感激的なクヌッセン。製薬会社の経営者として、最も怖い病気とされたハンセン病と結核の特効薬を開発した背景。この三つは徹底的に糾明が氏の宿願であった。それがちょうど先述の契機にあたった。この分野に疎い私に光明を与えてくれたのがこの本、それは観音様のお導き以外何者でもなかった。

蓋棺録
中津峰山如意輪寺責任役員山田丑二翁

 翁は大正二年生まれ八十八歳の天寿を全うした。徳島農業学校林学科に進学。時あたかも大正デモクラシー、軍縮のさなかに兵役年齢に達し数倍の競争率のなかで役兵に服す。射撃は連隊を代表した。三度の招集に、満州事変、南京事変等々太平洋戦争前夜の戦いに参戦。被弾したが無事帰還。戦時中は青年学校で軍事教練の教鞭をとり、戦後、家業に勤しむ。中年に病の冒され三年有余の闘病生活
 当山先代、戒本和尚の甥。若年の時から始終に当山出入、戦後、宗教法人法成立より責任役員。昭和四十五年私が住職になり、責任役員、筆頭総代として法人の意志決定に、実行に力を注ぐ。大師堂再建。若輩の住職を指導、数ヶ月に渡る毎日の勤労奉仕。防災施設新設、鐘楼門解体大修理、百味供養会百周年記念事業、大黒天奉祀三百周年事業等々の事業に内部よりご協力頂いた。
 後年毎日出仕、手先の器用によって、本尊ご宝前前机、護摩堂額、賽銭箱、灯籠台ひいては台所新築から道路の石垣に至るまで当山のあらゆるところの改修。能筆な翁は墨跡が多い。護摩堂の額、石灯籠、賽銭箱、ことに百味供養会百周年記念事業の「大般若経六百巻」には数千人の芳名のすべてが翁の墨跡である。平成元年高野山管長阿倍野竜正猊下はその功績をたたえ褒賞状が授与された。昨年の仁王門修復には四大不調のなか心配してくれた。一度は見て欲しいと思いつつも案内できなかったのが心残りだった。病院から帰路「仁王門へ連れて行ったら喜んだ」と娘婿から詳しく聞いた。