朝念暮念244号(平成13年5月18日)

五大明王・二天修復に

 五月一日、護摩堂の不動明王以下五大明王さん(五躯)と四天王さんのうち増長天と持国天の二躯を(財)美術院、国宝修理所より専用の車でお迎え願って修復のため入院しました。それは昨年の「二〇〇〇年記念事業」仁王門修復ともう一方の柱として佛さまの修理を行います。お手、持ち物等の欠損が見られる五大明王様は修復後は江戸初期にかえった神々しいお姿になることでしょう。美術院の小野寺先生によると二天はもっともっと古く鎌倉時代推定されるということです。とは申せ、工期が約二年の間、ものたりない気持ちがあろうかと思われます。実は一番寂しがっているのは当の住職です。この目的のため二年間どうぞご辛抱をお願いします。(写真は運搬準備中の佛さま)

唐招提寺・鑑真和尚・天平の甍

 四月二十三日、全国文化財所有者連盟主催による文化財研修会が奈良、唐招提寺で行われ、当山も住職、宮前建設宮前稔社長、竹内秀雄棟梁の三人が参加した。
 先ず、文化庁の技官による『文化財建造物の耐震補強』というテーマで講演があった。日本の建造物は昔から残ってきていると言うことであえて補強をしなかったが、阪神大震災の後、補強を考えるようになった。が、また、このところ従来の工法を確実にすることで耐震性を増す。それによってできる限り従来の工法を踏襲するという傾向だという。また、所有者の耐震判診断の基準ができている。それは文化財建造物のみならず。一般の建造物にも使えるものである。興味のある方はおたずね下さい。
 続いて、『唐招提寺金堂の保存修理について』奈良県教委文化財保存課長今西良男氏の話、氏は三月まで唐招提寺の現場主任だった。阪神大震災にはすぐ駆けつけた。「大丈夫」と胸をなで下ろした。幸田露伴の『五重塔』の棟梁を思いだした。唐招提寺に詣ったのは確か四度目、金堂屋根が一番に美しく目につく寺だったが、今は五階建てほどの高さの工場かと思う素屋根。金堂は九躯の佛さまが祀られ、その佛さまの雨露しのぐ建物として立てられた。今度の解体修理で創建の詳しい調査が行われるが、概ね千百年余り前の他に例はない貴重な建物である。以前屋根の線が創建当時と違うと聞いていた.。明治の屋根修理のときは小屋組(屋根裏の組み)を西洋式にトラスを使ったという。当時は外観が違わなければ内部はそれでよいということだったらしい。それでも屋根の重みによって柱が内側に十pほど倒れ組み物が八pほど外に倒れねじれている。実は素屋根(工場)のなかで二年かかって調査し、まだ解体はされていない。またこの間にコンピュータによるシミュレーションでこれからの修復の方針が練られている。講演内容は細かいので略すが、明治三十年の修理ではトラスの他、鉄のボルトも使われたという。当山仁王門は明治三十六年建造にボルトが使われた。ときの棟梁が先取気概の持ち主であったことが推測できる。
 素屋根のなかへ、班別に分かれて我々は先ず一番上の甍部分から下へ見学する。天平、鎌倉のシビが棟にいる。私たちは古いものを使っていきたい。だが、今回は瓦他は新しくするのではないかという。見た目きれいだけれど千年の間に相当風化が進んでいるらしい。軒先を見ると垂木など小さいほぞ穴や釘跡が見られる。修理の度に古木を回して使った、木材を大切にした。現代でも手間の掛かる組み物も丁重に作られている。さてさて柱をはじめ垂木類、小屋組材、マス組等々の木材はどうして加工されたのであろうか。丸いものは回転させて刃物を添えればできる。困るのは真っ直ぐなものである。檜の真っ直ぐなものを割って、仕上げを長刀のような槍ガンナでおこなう。今のカンナや立つ曳き鋸ができたのは江戸時代という。素朴な刃物では柔らかい檜でなければできない。檜がなくなってくると広葉樹へ材を求めるという材料史、でも硬いそこで刃物が発達する刃物史。それでもなくなると遠方に求める、実際東大寺の創建当時の奈良時代は付近の真っ直ぐな檜でできた。消失し中世の再建には広島付近の檜、また消失し、現在の建物ができた江戸時代は日向から運んだという。これで輸送史になる。もとにもどって唐招提寺の木材は天平時代故に土地の檜があった。それをを割ってできている。このお堂のもう一つの特徴は内部全部に絵が描かれている。女性の技師が一々和紙をはって剥落を防いでいる。はっきりした部分とそうでないぶぶんがある。こんどは彩色のやり直しすることはしない。中層に移動する。講演にあったマス斗のズレを目のあたりにする。建造物に対しわずかなズレなのだが、このお堂の運命を左右するらしい。当山本堂も或いはこれくらいのずれがあるかも知れない。シルクロードの東端というギリシャ系のエンタシスの柱が見られる。下層は昔参拝したとおり、それらを見上げるということになる。今、目の前にあるのは天平の甍に直に手に触れる。この感激はインドの祇園精舎でお釈迦様ご在世時代の発掘建造物に触れたとき以来だ。佛陀のぬくもりを感ずる。
 さて、唐招提寺は鑑真和尚が日本へ佛教を伝えるためにこられ、和尚のために創建されたお寺だ。和尚は四回目の旅で日本に来られた。中国では渡航に失敗した和尚が日本へ行かぬよう監禁するほど彼の国でも慕われた高僧であった。日本にお着きの折はとうとう目がご不自由であった。しかし、和尚に同行した僧侶、文化人等々は百人を余ったという。言い換えればそれだけの文化使節であった。こうして日本に正しい佛教、戒律を伝えたこ
とはいうまでもないが、それだけではない生活全般の文化を伝えた。この流れを律宗という。戒律はその後、廃れては復興、復興しては廃れる歴史を繰り返す。鎌倉時代、大悲菩薩、興正菩薩が戒律を復興、奈良西大寺の流れを汲む真言律宗、江戸時代は浄厳和尚や慈雲尊者が出て戒律を復興した。後者慈雲の正法律は大衆にむけて『十善法語』として優しくとかれた。この講演録は当時のベストセラーにだった。明治になって、雲照律師は高野山を下って、当時の廃仏毀釈の波に反して、全国に佛教を布教、仏教会を改革した。徳島にもみえ、多くの揮毫があるという。また、山岡鉄舟の選による「十善法語」を再販した。一方、廃仏毀釈運動のなか「御修法(みしほ」を復活して佛教による国家の安泰を祈った。これは神道によって閉め出された思想復活ともいえる。また、師は東寺に「総黌」それはソウコウと読み、真言宗を束ねる或いは全てを束ねる総と黌は学校の意味である。中等教育の大切さを説き学校作った。現の洛南高校である。現校長は後述する後藤善猛先生。
 中国で登小平が権力を握って文化大革命が終った。中国の発展には日本との交流を欠かせないとはじめて日本にやってきた。日本視察のコースに中国ゆかりの唐招提寺が選ばれた。時の森本長老は登小平に「鑑真和尚の里帰り」直訴した。登小平は承諾した。長老は思わず彼に抱きついた。かくして、最高権力者の命令一下、鑑真和尚の里帰りが実現した。しかし、長老以下随行の人たちも上海空港から鑑真和尚のふるさとへの道を知らない。不安でいっぱいであった。案ずるより生むがやすしの諺どおり、空港からふるさとまでの何百qという長い長い沿道には人々が両側にならんでの歓迎だったという。元のお寺は文化大革命で僧侶がいない。急遽還俗していたものをもとにもどさせて歓迎した。その後、登小平は還俗僧侶の再復帰を認めた。鑑真和尚は日本だけではなく、千年後に母国中国の佛教を復興させたのである。これは先般の研修会で寺中の方から聞いた話である。

教科書問題

 「教科書ってなあに」という質問に答えられますか。
 文部科学省の『指導要領』があり、一年生は何を教える云々と細かく決められている。それは十年ごとに見直される。今度の改訂は優しくなりすぎたと批判のあるものだ。次に教科書の全体ページ数、価格等々の決まりがある。これは過度な競争を防ぐためといってよいだろう。そうしたなか、日本国は誰がでも自由に教科書を作れる。といっても教科書はそう簡単にはできない。自ずから教科書出版業者が多くの学者を動員して作るということになる。業者は現場の教師に最初の試案という段階の教科書を「ここにこんな図表を入れてくれ」「この人物がないのは納得行かない」等々実際に授業をする上で都合がよいような提案を求める。これらを全国から集約して改訂する。実際私の提案を取り入れた会社もあった。実は教科書の販売手段でもある。できあがったものを文部科学省に提出、何度かの修正を求められて検定を合格する。この段階は著者、出版社などが分からないよう白表紙にするという。合格したものが「検定済」教科書といわれる。その数は三十年前私が担当していた「倫理社会」では確か十七社二十三冊と記憶する。これが第一段階である。
今韓国が問題にしている「新しい歴史教科書を作る会」の教科書はこの段階である
 次に各県教育委員会がそのなかから採択する。三十年前の徳島県は現場の希望のある教科書を採択、ないものを不採択としていたと思う。それをもう一度、義務制は市町村教育委員会が、高校は学校で実際使う教科書を選ぶ。そこでやっと教科書会社は販売できるのである。読者の子供さんの教科書はこの過程を踏んでいるのである。因みに今年中国がクレームをつけはじめてのは白表紙の段階本来出版元が分からないはずのときである。もう一つ中国は韓国に共同でやろうと誘ったが韓国が受け付けなかったという。そういえば二国の対応はだいぶ違っている。
「教科書ってどんなに違うの」
 私も教科書のなんとか委員だった。それは全部の教科書(倫理社会のみ)検討しなければならない立場にだった。だが、それほど変わりない。不思議なのは心理学の分野で野生児アマラとカマラの話が大半載っているのである。今ではその存在自身怪しいという話しがである。ほとんどの教科書は思想史的に取り扱うのに一社だけ例えば自由とは・・理性とはという風に(実際はもっと細かかったが憶えていないのでお許しを)項目別になっている。これなど個性豊かで教師の力量が試される。結果、採択している学校は県下で一校あるかないか。営業上成り立たない。だが、その出版社は安全策をとって思想史扱いの教科書と二種類あった。
 日本史を教えたことがないのではっきりしないが、日本史の偉い先生が裁判した。その教科書を見ると日本人ががいやになる。一社がそういう教科書を作るとマスコミにたたかれまいと先述のように右え(いや左へ)ならえとなる。そんな教科書がいやだ、「日本人として生まれてきたことに誇りをもとう」とした教科書運動がでてきた。それが「新しい歴史教科書を作る会」である。この団体の教科書は見たことがない。が、恩師川上先生から頂いた、同会発行の『国民の歴史』をこの本から推測するに常識を逸するとは思わない。
 だが、先の過程を踏むとおそらくこの教科書はどこの都道府県教育委員会のも採択されまい。採択されても使う教師は勇気がいる。ここ数年はあってなき教科書になってしまうのではないか。ただ、この団体の主旨は考えなければならぬ。また、この問題、裏の裏は国内問題でもある。唯物史観の歴史学者の巻き返し、さらには某新聞社と某新聞社の問題でもある。今度の韓国からの抗議をきっちり受けとめられる明確な歴史観を持ったジャーナリストがどれだけいるだろうか。
これだけ論議する教科書だが、実際は教師の学問観、力量によって授業される。教科書より自分の作った指導案、ノートが中心である。気に入らなかったら教科書批判もあり得る。日本の教師はその点、自由すぎるくらいなものである。

一冊の本『二十一世紀へ羽ばたく若者たちへU』後藤善猛 洛南高等学校出版

 善猛先生は徳島県立、鳴門工業、脇町、城南高校の校長をされ、平成十一年京都東寺にある洛南高校・同付属中学の校長先生に就任された。洛南高校は先の文中、雲照律師が真言宗を作られた「総黌」である。現在は京都一、いや日本屈指の進学校。だか、ただの進学校ではない千二百年ほど前に弘法大師が庶民の学問の機会均等を与えるため「綜芸種智院」ができたのも彼の地である。毎月の「御影供」をはじめとして宗教教育を行っているのが洛南高校だ。
 その高校にうってつけの校長さんが善猛先生である。なぜなら先生は京都大学出身だが、高野山大学予科にも籍をおかれたお坊さんである。先生が城南高校で長い教師生活にピリオドを打った。その足で剃髪して再び高野山に登り小僧の修行からやりなおされた。指導側には同級生が本山部長であった。、先生は若いときから阿南の梅谷寺の住職である念のため。校長に就任されるや。先ず「綜芸種智院式併序」を読まれ、続いて雲照律師の研究をされた。そうして建学の方針にもとずいて、講話、エッセイ、告示を卒業生のためにまとめた本である。一節をあげると中学部の「卒業式告示」に「この時点で本来なら自由な自己の進路の選択を求めれられたことを忘れてはならない。一大決心がここで必要であったことを忘れてはならない。明日の洛南高等学校への進学が約束されている諸君には殊更このことについて考えていただきたい」と戒められている。ほか、先生のご人格そのものの話をわかりやすく説かれている。
 本書を読んでびっくりした。雲照律師、山岡鉄舟の交友、私が知らなかっただけかも知れないが、鉄舟の歴史に出てこない業績、これら次号で紹介したいと思う。