朝念暮念243号(平成13年4月18日)

バーミヤン石窟佛像群の破壊


 最近、腹の底から怒りを感ずることにイスラム原理主義集団タリバンよるバーミヤン石窟仏像群の破壊がある。学生の時代、佛教美術史でインド、シルクロード、中国と学んだ。時の山本智教先生はインド学位を取得『仏像の起源』で世界的に有名な先生。その講義のなかにバーミヤンの石窟があった。そのノートがあれば石窟の番号とともに一々が詳しいのだが、今はない。また、詳しいもの資料も見あたらない。
 紀元前四世紀末有名なギリシャのアレクサンダー大王のインド遠征によってギリシャ文明とインド文明の東西を融合した文化が形成されはじめた。次に紀元一世紀頃クシャーン王朝ができ二世紀カニシカ王の時代に大乗仏教による統治で栄えた。ガンダーラ様式という美術、仏像ができ、中国、日本ことに法隆寺にも影響した。その後、四、五世紀インドはグプタ王朝が純インド的なグプタ様式の仏像となった。アジャンターの石窟壁画がそれである。一方、ガンダーラ様式の流れにあってかの石窟ができたていったのである。それは玄奘三蔵の『大唐西域記』のなかにも書かれている。千窟余りの石窟はそれぞれ時代の開きが大きい、故にそれぞれが貴重なのである。十一世紀になって、イスラムがアフガニスタンからインドに侵略をはじめ、十三世紀にはデリーに王朝もできた。十六世紀、イスラムはインドから完全に佛教を滅亡させた。一連の侵略のなかでバーミヤンだけではなく全インド地域で寺院の破壊、仏像の首切り、顔削ぎが行われた。現在も顔のないガンダーラ佛は数多く発掘される。最初の佛教寺院(サンガというのが正しい)で佛跡の一つ竹林精舎にはイスラムのお墓が建っている。
 西欧の宗教は天地創造にはじまりモーゼの十戒等々の旧約聖書の世界、イエスの生誕、マホメットの誕生は同根である。旧約の世界で現代生活しているのはイスラエルの宗教、イエスの誕生で新約聖書の世界は両キリスト教、七世紀マホメットの誕生より続くのがイスラム教、九世紀カトリックは東西に分かれ、十六世紀の宗教改革でキリスト教はカトリックとプロテスタントになる。「モーゼの十戒」に「汝、偶像を崇拝するなかれ」とあり、これがカトリックでローマ教会とギリシャ正教に分かれる原因ともなる。そのうち一番厳重なのがイスラム教である。インド侵略には偶像の首を落とす、顔を削ぐ。大きい佛体は目の付近を切り取る。その意味で十六世紀までにバーミヤンは仏像ではなく遺跡になってしまった。千の石窟の佛体はたとえ御顔が無くとも先述のように貴重な文化財である。
 長い間それでよしとしたものをこの度改めて全部破壊する。その行為はどういうことか。この地方に住んだ多くの異人種、異民族、異教徒が護ってきたのではないにしても遺してきたものである。タリバンどもが遺したものではない。だから壊していいはずはない。アフガニスタンとしても大切な観光資源を失った。こんな政党が支配する国には一銭たりとも支援はいらない。

「愛媛丸」の三話


 一、因縁話

 事故が起きた場所から真珠湾へ九海里(一六,六五q)日本の海軍が米海軍基地を襲撃し、日米が開戦の火蓋を切った場所。奇しくも今年は真珠湾六十周年、ディズニー映画『パールハーバー』も日米で公開される。大戦中の一九四三年、太平洋でアメリカの潜水艦ハリバットに撃沈された貨物船は「えひめ丸」だった。また、事故時グリーンビルに搭乗していた民間人の中には、米戦艦ミズーリを歴史資産として保存するための寄付金を出したことから体験招待された人がいた。ミズーリは日本の重光葵外相が一九四五年降伏文書に署名した戦艦だ。民間人の手配したリチャード・マッキー退役大将は九五年に三人の海兵隊員が沖縄で小学生の少女を暴行した時、『(犯行に使った)レンターカー代で売春婦を買えただろうに』と発言したことで太平洋艦隊司令官の職を解かれた。ワドル前艦長は三沢市生まれ、父親は空軍将校だった。「最初に学んだ言葉は日本語だった」と語り、日本領事館で謝罪したとき領事館側の説明に「はい」と日本語で答るほどの親日家。その艦長を軍法会議に送るかどうかを決めるのはトーマス・ファーゴ太平洋艦隊司令官、彼は海軍大佐だった父の転勤で来日し、佐世保市の高校で学んだ。海軍士官学校を卒業後九二年から九三年には第七四任務部隊の司令官として横須賀に勤務した。横須賀の「どぶ板通り」を懐かしむほどの日本贔屓。その親日家二人が裁く側と裁かれる側にわかれる。(雑誌フォーサイトより抜粋)

 二、弁護士の力

 ワドル前艦長に「刑事責任があり」とされるとどれだけ多額の損害賠償を求められるかわからない。アメリカはそんな訴訟社会なのである。その点、日本人の感覚には合わない。そのため有能な弁護士が不可欠だ。彼の雇ったヴィキンズ弁護士はまず国家運輸安全委員会への証言を拒否させた。しかし、先述のとおり日本の心を知る彼は謝罪せずにはおられなかった。その極限まで押さえ、やむにやまれる状態にもりあげたところで涙の謝罪させる。同時に刑事免責の交渉をしながら、結局は証言する。また被害者には謝罪をしたため、いささか好感を持った感がある。日本側の態度の変化をきっちり訴訟に反映させる。この一連の流れを見ていて訴訟社会アメリカにあって訴訟全体を指揮子、臨機応変に戦術を変えていく見事な様子を垣間見た。また、全ての責任は艦長にあるといっている。が、これは査問会議がはじまった当日、日本の民放に出た弁護士の口からもいっていた。それを木村太郎が解説して「艦長の責任というのは大航海時代の船長の責任を継承するもので、時代にあわない広大なもの」という。結局は余り意味のない発言になるらしい。

 三、僧侶として

 行方不明のご家族の皆さんはホノルルのご厚意、ワドル艦長の謝罪、米国政府の態度、特に時間の経過が落ち着きを見せている。とはいっても、もう帰らない肉親への思慕が消えるものではないことは十分承知している。が、私は僧侶としてあえていわせて頂く、行方不明の方々のご家族、周囲は実際は帰ってこないことを十分知っている。いつかはけじめをつけなければならない。先ずは追慕の式を合同で行う方法もあろう。そうして葬儀をせねばならない。百箇日を一名卒哭忌という。涙を卒業する法要だ。その頃一段落つけたい。相手がどこか分からない。或いは死も知らないかも知れない。昔から「水没者に」とあるのはそれをいうのかと思う昨今である。ご家族には肉親の帰りを待つ情は当然のこと。それを批判する気はさらさらない。が、内外野の我々は、現場と十九q余りの真珠湾には日本海軍にやられて沈んだままの戦艦アリゾナには幾百人の遺体が六十年そのままであることも踏まえ、感情的に騒ぎ立てることなく、冷静にものを考えなくてはなるまい。

蓋棺録
 分木豊吉翁


 山麓の分木家は代々当山総代をお願いしている。私の住職晋住から三十年ある時は励まし、ある時は苦言をとよく相談させて頂いた。翁は旧制徳島中学卒業後、陸軍山砲の部隊に入隊、中国よりビルマ戦線に転戦。アラカン山脈を越え、日本軍最長の戦線のインド領コヒマで戦った。山砲部隊は進むは最前線、退却は最後尾という。一%にみたぬ確率のなかで無事帰還された。翁は戦争を語るに勇猛を語らず、戦争の無常さ、非常さを静かに話された。私がブータンへいったとき「戦場はブータンの近く、相手はグルカ兵、中国、成都より日本爆撃をする米軍の補給線を断つ戦いがコヒマ戦線であった」とはじめて語った。還暦頃より二十年四大に不調を訴えたのはこのときの後遺症かと思われる。
その後、家業に専念し、地域リーダーとして活躍、民生委員、保護司、徳島市農協理事等数々の役職を歴任。地元多家良町の福祉と発展・改善に大いに力を尽くされた。
 昭和四十五年私の初仕事が大師堂再建だった。会計長として竣工。一緒に大師堂募金中昼食時に電話で跡継ぎの誕生を知った。それが副住の弘乗である。その後、防災施設新設、鐘楼門解体大修理、百味供養会百周年記念事業、大黒天奉祀三百周年事業等々の事業にご協力頂いた。事業をする前先ず翁に相談全体構想を話し、問題点を指摘して頂いて始めた。昨年の仁王門修復には四大不調のなかにあってことのほか喜ばれたのが最後になった。
瀬戸清翁
 ご存じ元町「本家 橋本」のおじいちゃん。そば打ちの名人である。翁は兵役で工兵隊に入隊。旧満州国のコリンに赴任した。満州の冬は寒い。工兵隊は外の仕事ばかり。そば好きの隊長がやってきた。「この中にそばが打てるものはいないか」翁はおそるおそる手を挙げた「今日の演習は免除するから、そばを打て」と。翁はまさに水を得た魚、一生懸命そばを打った。「これは絶品じゃ、今日から演習はよいからそばを打て」と命令された。上官の命令は云々、爾来寒い戸外の仕事は免除になった。芸は身を助くとはこのことか。 復員したら瀬戸家の橋本は灰燼。戦後、フミ子婦人と「本家 橋本」を復興された。徳島駅前商店街の復興につながり、老舗「橋本そば」は徳島を代表するブランドとなった。フミ子婦人を伴ってよくお詣りされ、当山の事業にはいつも第一に多くの御寄進を頂いた。世寿九十七歳、八多町出身。 

余録

 中国、西安(大師の時代は長安)の留学生、王予泰さん夫婦がみえた。寺全体を案内し、大檀を示し「ここに飾られ、修法するのは空海が西安から学んだものだよ」と話した。急に目を輝かせて聞いている。大師堂、空海像前へ夫君の周さんの弟は空海記念堂の管理事務所へ勤めているとか。恵果(大師のお師匠さん)、空海との関係を知っている。現地の発音も教えてもらった。空海を介し緊密さをおぼえる一日だった。