第221

三つの伝統行事

ブータン紀行9

一冊の本 

余録

 

三つの伝統行事

三月、四月、五月と高野山に月参りとなった。各々の伝統行事に参加のためである。

三月十日は弘法大師のお手代わりとして一年間一切の法会を司どる法印様の転衣式。

高野山学侶の生涯カリキュラムに、高野山の僧侶に登録することを交衆といい、木綿の墨衣に白袈裟がゆるされる。修行を積んで勧学会、初年目、二年目を受け、さらに学問を続け、三十歳頃入寺という身分になる。黒緞子衣に黒袈裟となる。四十歳頃阿闍梨位に昇る。その間に阿闍梨位潅頂(学修潅頂)に受ける。高野山の寺籍を持つものは順番に一年間明神様を祀って立精(問答)に臨む。明神様の御奉祀はご飯、精進供他一切を自分でやらなければならない。もし高野山でなにか不祥事がおきると「明神さんは誰れ」と問われる。外部からのプレッシャーをかける風習が山上の人々の生活の根付いている。一年後東西学頭として先の勧学会を取り仕切る。これを学道成満といい、以後上綱様と呼ばれる。 それ後いろいろあって二十年あまりすると法印様の順番がくる。早い方で七十歳余、遅いと八十歳近くになる。この生涯カリキュラムはただ学問をだけというものではない。明神様を奉迎、学修潅頂の入壇、法印転衣式等々要所々々では多大な物入りがある。私も学修潅入壇に物心両面を整えねばならぬと古老から戒められ、十年間積み立てて準備した。今年の法印様は北室院住職の松村勝禅大僧正、昭和と同じ年齢である。法印様には若い頃からかわいがって頂いた。二月に管長猊下から法印辞令、良き日を選んで宝亀院のお衣染めの井戸から汲んだ水で檜皮色に染め調製した衣を加持し、奥の院大師御前に一年間ご使用頂く衣を供え、昨年の衣を頂戴する。それが旧御影供と五月の結縁潅頂に法印様がお召しになる檜皮色の衣である。転衣式とはまさに衣をかえる式。法印様は自坊から黒の襲精好という衣体で金剛峰寺に向かう。諸関係の方々、我々一同がお伴する。式はその衣体から一度退座。緋の衣に替えられ再登場、一年間緋の衣で通される。古式の松三宝の儀等々で終わりお斎きとなる。お開きとなって御駕籠で自坊に返られる。そのときも僧俗の関係者がぞろぞろお伴する。一年後成満の折は衣が紫になって前管様となる。

四月十四日、座主猊下晋山式

高野山の座主は高野山真言宗の管長をかねる。山下の住職で近年では阿倍野猊下など座主に昇られた方も多い。だが、高野山座主というのは先に述べた学道成満しなければならないから、山下の住職は就任後その課程を踏むのがたいへんだ。和田有玄座主猊下のご自坊は西南院、もちろん前管さまである。昨年秋の選挙で選ばれ高野山一番良い時候を待っての晋山式である。高野山の高野山座主たるのは次の点にある。五時三十分、まだ夜の明けきらぬ金剛峰寺前に有縁の僧俗があつまる。これから。御幣奉進である。山下は桜が満開というのに高野山の底冷えはきびしい。実はこの儀式を案外知らない。筆者は阿倍野猊下のときお伴して経験済みなのでみんなに教えてあげた。御幣といっても二メートル余りの大きなものを古式に白丁(はくちょう・昔の興しを担ぎの衣装)四人が担いで進み、和田座主猊下と本山の重役方、それに我々という行列で伽藍の諸堂を巡拝して進み、御社に御幣を奉安して、御社の拝殿である山王院で御法楽を捧げる。その間、奥の院、御社、御影堂、大塔、金堂では猊下のお手代わりとして晋山式の無魔成満を祈る、これを五所誦経という。午前八時より、金剛峰寺大広間において、高野山の伝統教学の「法楽論議」が行われる。この論議は高野山伝統教学論議である。先述の勧学会もこれに類する。独特の節回し、口調で行うのが特徴である。国語学者がこれを聞くと昔の抑揚など参考になるだろう。はじめに南山教学(高野山の教学)を取り仕切る一山の依止師として行うのがこ「法楽論議」である。座主猊下が聖俗合わせた頂点にあることを物語る。その後、十一時より各山の管長さん方、各階の重責の方等々の来賓を招いて、一般的な晋山式が行われ、お斎でおわる。

五月十四日、当麻寺練供養

当山の高野山団参は五月十三、十四日に行った。当麻寺の練供養参列のためである。大和の国、当麻寺は白鳳時代の伽藍に金堂、講堂、東西両塔、曼荼羅堂がならぶ古刹である。その上、中将姫の物語でこの寺をより有名にしている。藤原家の娘中将姫は継母に妬まれ命を狙われ続けるが、恨みをもたず万民の安らぎを願った。十六歳のとき、当麻寺を訪れ、実雅法印に認められ出家、法如という尼僧になった。佛、菩薩の加護を得て蓮の糸による織物の製法を感得し、それで曼荼羅を作り上げた。それが国宝「当麻曼荼羅」である。さらに法如は人々に現世浄土の教えを説きつづけた。二十九歳の春、その身そのまま極楽浄土へ旅立たれた。それが五月十四日であった。練供養は当麻寺一山の本堂である曼荼羅堂から山門横の娑婆堂まで高さ二メートル余りの花道が設けられている。標高差二十メートル余り長さ百数十メートルはあろうかという遠大な舞台である。午後四時、娑婆堂まで中将姫像が現世に里帰りする。次にこの度我々がお世話になった、中之坊の松村実秀ご住職がご自坊から曼荼羅堂まで上堂される。曼荼羅堂からはお母さんに連れられたお稚児さんが先に降りてくる。それから二十五菩薩の来迎である。この日の朝高野山の霊宝館では学生時代以来、いつも旧館の正面に掛けられているはずの「二十五菩薩の来迎」が見あたらない。バスの中でたぶん当麻寺に来迎されるのだろうといいながら到着したのであった。それが目の当たりに顕現している。お面、衣装全部がが重文クラスであろうか。二十五の各菩薩に紋付袴で威儀を正してエスコートする方がついている。お面は前が見えないのかも知れない。この日は二十年ぶりの好天気とか。気温も相当暑い。菩薩は時代物の金襴緞子を何枚も重ねた衣体、着るだけで汗が出るだろう。二十三の菩薩が歩いて来迎したあと、三十分ぐらい待ったであろうか。観音と勢至菩薩が中腰にして二歩すすんで一歩後退という歩きかたでお出ましになる。手に持つ蓮台には何も乗っていない。娑婆堂に着いて短い法会。復路は観音、勢至が先と同じ歩みかたで曼荼羅堂へ進む、蓮台には中将姫が佛様の姿になって乗っている。中将姫の即身成仏の再現である。娑婆世界(娑婆堂)里帰りした中将姫を二十五菩薩が来迎して、再び中将姫を阿弥陀様の西方浄土に導くという物語である。お練がはじまって二時間あまり、長い一日もおわりに近づき、初夏の真っ赤な太陽が西方浄土に傾むいていった。このお練供養のため二十五菩薩になるもの、エスコート役等々陰に陽に諸役がある。それらがお稚児さんにでる頃から、地域社会の中に組み込まれているのだと拝察した次第。参拝団一同感激のなか帰路についた。


ブータン紀行(その九)

今日はブータンを去る日。早朝に起きてホテルの周辺を散歩、といっても何もない。今日から僧服は止める。だが、結果は余り良くなかった。予定どおり朝七時ホテルを発つ。パロ空港までは二十分ぐらいの行程。今日は空港の裏側から二千五百メートルの滑走路を回って正面へ向かう。到着時と比べて、警備が非常に厳重だ各要所要所にお巡りさんが数人いる。とはいっても我々観光客は検問はない。厳重ながらのんびりしている。「何事か」と聞くと「王子様が米国留学のため飛行機に乗るらしい。それまで出国はできないだろう」と。わかっていたらその分遅らせてホテルで寝ていた方がよいというのは日本流。たちまち空港に着いてしまった。先般のパーティに来てくれたエアー・ドウイックの社長に出会う。彼も見送りらしい。一般の待合所とは別に民族模様のテントが張られ休憩所ができている。男はゴにカムニ、女はキラにラチューの正装で集まっている。我々ほか観光客はすんなり出国手続きをしてくれるので、定刻に飛ぶのではと期待がかかる。あにはからんや、王子様の出発後でないと飛ばないらしい。狭い待合室にていよく軟禁されたらしい。若い坊さんがいたので話しかける。万福寺の奥さんに通訳をお願いし、ブータンの仏教事情を聞く、三人組の坊さんはネパールに仏像を買いに行くという。一番年長の坊さんはエリート僧らしく、昔は仏教哲学を教えていたが、今はテンプーの山の中で瞑想を教えているという。日本はいそがし過ぎて瞑想できない等々をいうと。その中で数分でも瞑想の時間が必要なのだと自信を持っていう。こういう連中を日本に連れてきて学問させることと引き替えに瞑想を教させると面白いと思う。などなど楽しくやっているうちに「窓から写真を撮るな」とさらに厳重になった。ブータン一から七までのナンバーのついたトヨタのランドクルーザーがやってきた。王族の到着である。王子様が見送りの皆んなに挨拶してカルカッタ行きの飛行機に乗っていった。同便の乗客達は二時間余り飛行機のなかで軟禁されたらしい。それならこちらがまだましだ。王子様が出発しても王族達が帰るまでまだ時間があった。航空会社の社長さん等は王族を見送るのにカムニの端を持って土地に手を着くほど深々とブータン式礼をしている。先の坊さんに声をかけてくる年長の坊さんがいた。袈裟の色が違う。「誰だ。なぜ色が違うのだ」と聞く「パロゾンに代表で、今日は公式なのであのような袈裟もある」との由。俺は第二位の坊さんと会ってきたというと「我々はとても会えない」という。二時間余りしてやっと搭乗である。


一冊の本『一九四五年のクリスマス』 ベアテ・シロタ・ゴードン著

彼女の口述テープを平岡磨紀子氏が構成し文章化したもの。      柏書房刊

日本国憲法はGHQの押しつけ憲法だといわれ、学生時代憲法の授業に英文のものがあった。この本でその経緯が生々しく述べられているのにある種のショックをおぼえた。  GHQの民政局ホイットニー准将が二月四日に発議し二月十一日までに完成させるようが命じた。その日は日本側と憲法草案について内密の会合を持つことになっていたという。その時ホイットニーは「私は説得できると信じているが、それが不可能な時は、力を用いると言って脅すだけではなくて、力を用いてもよいという権限をマッカーサー元帥から得ている」と。また「我々の目的は、彼らの憲法草案に対する方針を変えさせ、このようなリベラルな憲法を制定しなければならないという、当方の要望を満たすよう進めるのがねらいだ。出来上がった文書は、日本側からマッカーサー元帥に承認を求めて提出されることになる。そして、マッカーサー元帥は、この憲法が日本政府が作ったものとして認め、全世界に公表するであろう」と。私は今までこのように具体的に日本国憲法のいきさつを書いたものに出会わなかった。彼女は民政局の一人々々の経歴を詳しく述べている。教授、博士号、修士号を持つものが多い。高い教養のスタッフである。主な中心人物にはニューディラーが多い。そして、一同新しい国家づくりに高い理想を持ってあたっていたことはこの本から読みとれる。ただ、日本には民主主義はないという理解のもとに改革しようという意気込みがある。本書の著者が若くても最も日本を知っている一人というお粗末さである。一方、日本の憲法学者も今様にいえば過去のマインドコントロールが解けずにいたのだろう。著者はウィーン生まれ。父親がピアニストで東京芸大の教授となったため五歳から十五歳まで日本で過ごした。アメリカンスクール卒業時には「義理」についての演説をするほどであった。のち単身渡米、日本語を生かして自活し「タイム」のリサーチャーをへて二十二歳でGHQの民政局に赴任した。両親を日本で捜し、生活の面倒を見ているとき、先述の憲法の草案を命ぜられた。両親にもいえないトップシークレットであった。ユダヤ系のシロタ一家は来日せずウィーンで過ごしていたらアウシュビツへ送られたかもしれない。実際親戚の大半は悲しい目にあったという。 そんな彼女が若い情熱をかけて人権の部分を執筆した。とりわけ男女同権に力をそそいだという。岩波文庫の『世界の憲法集』を比較して現憲法の人権部分は多い。ドイツのワイマール憲法とソ連の憲法が基本のなったのとは驚きである。私の記憶では明治憲法もワイマール憲法が基本と思うのだが。細かいところでは第十四条の法の下の平等のなかに「門地」とある。私は中、高、大学でこの文言を質問してきた。どの先生からも私を満足させる回答が得られなかった。だが、本書で初めて解決した。それは人権委員会のキャップ、ロウスト中佐がインドでカースト制度研究の民俗学者であったというのを読んだからだ。実際著者の草案はカーストとある。明治憲法のいのちが五十六年、現憲法もほぼ同じ年齢になった。日本国憲法、ゴルフルールブック、ロータリークラブの定款が最も分かりにくい日本語という。ともに翻訳調という共通項をもつ。現憲法の趣旨を生かしながらあの日本語だけは早く改訂したいと思うのは私だけだろうか。


余録

カッコーの声が聞こえる。何年ぶりだろうか。今年の四万八千日は第二土曜日、学校も休みにつき、ぜひお詣り下さい。