第220号

自他平等

ブータン紀行8

納得のいかない話 

一冊の本

余録

 

自他平等

あるとき、徳島大学名誉教授、渡部孝先生と話していた。先生との関係の詳細は省略するが、学生時代からの古いおつき合いで私の思考形成に少なからず影響をうけている先生である。だから、先生のものの考え方は多少は知っているつもりだった。先生が「涅槃図」について、「お釈迦さんがなくなって、人間も動物も皆んな泣いてきているだろう。あんなの西洋ではあるかい。あれが東洋的思考の最も大事なことなんだ」それを聞いた私は子供の頃からなじんだ涅槃図。我々にとってはお釈迦様を追慕する法会、涅槃会の本尊として人間が泣き、動物が泣き、昆虫が泣き、植物も枝をしおれさせ悲しみを顕し、天人、鬼神等もわなないている姿に親しんできた。当然とは思っていても「西洋にそんな図あるか」と問われるまで比較もしなかった。キリスト教社会でやや近いものに聖フランシスだったか、小鳥への説法の絵があったと記憶するのみ、それとて小鳥にでも神の教え説く聖者の偉業を讃える絵である。先生はさらに「あの図が示すとおり、自然と人間が対立して存在しているのではない。ともに生きている証である。これから自然と人間を考えるとき、こういう考えを持たないとダメだ。共生というのはそういうことだ。共生というときそれが本当に理解できていないで使っている連中が多い。それは西欧的教育を受けて自然と人間を対立的にとらえるからだ。だが、我々は人間も自然のなかの一部、ともに生かされているということだ」「自然科学の人のなかに今西錦司をはじめとして共生という考えをもっておられるですね」「自然科学者はその限界を知っているからだろうね」といわれる。唖然とした、それは自然科学、特に機械工学の大家の言葉ではなく、東洋・仏教系の哲学者・宗教者の言葉と同じだからである。わたしたちは日々の勤行の最後に「願わくばこの功徳をもって、一切に及ぼし我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」と誦えている。これを私流に解釈すれば「わたしたちが毎日誦えるお経を始め、各種の善業は何のためか。それはこの世に生きとし生けるもの一切のために善業をすることである。それはわたしもこの世に生きとし生けるもの一切も隔たり無くいっしょに仏道修行に励み、ともに佛陀のご加護を願わんがために」となる。ここでは「自他平等」の自とは我、他とは一切衆生、それがが平等という。宇宙の森羅万象全てが共に生きている。密教ではそれを象徴して大日如来という。大日如来の智慧を表現をしたのが曼荼羅である。その視点に立つと先にあげた「涅槃図」一切衆生が悲しんでいる姿はは東洋思想を象徴している。先生のお話からあらためて考え直させていただいた次第。

 


ブータン紀行(その八)

いよいよテェンプーとお別れ、往路を引き返す。わずか四、五日かんに趣が変わって、りんごの収穫の最盛期。ちょうど午後の作業がはじまるのか、大勢の男女が背中に大きな籠を背負って山に向かう。山の畑の所々にはインドのタタ製の大型トラックが止まって集荷している。こんなところは日本の四駆の軽トラぐらいが適当だ。品種は日本の「国光」テェンプーからパロへの沿線では日本のりんごと大きさ質ともにかわらない。これもダショー西岡が広め、栽培技術指導した成果だ。数少ない輸出品目になりうる。それにしてもわずか当山から脇町の直線距離の間にバナナ畑とりんご畑を見る。信州(或いは青森)と沖縄の気候差があるわけだ。パロの町のレストランで昼食。メインストリートの家並みの二階がレストラン五、六卓あるのみ、まあこちらでいえばお好み焼きやといったところ、我々一行様が入っていくとブータン料理をおもむろに並べてくれる。といっても人手が足りないらしく我々のバスの運転手、助手が手伝う。そこが佛様のもと無階級社会ブータン。インド人なら絶対やらないし、やらせない。食事はバイキング。野菜類も豊富である。ナス、キューリを始め日本の野菜が見られる。おばさんがダショー西岡によるという。それを日本人に向くように調理されておいしい。そこにいく組かの旅行者が入ってきて楽しくすごす。あとで私の住所をさがして手紙をくれた金沢市の小谷さんもいた。彼は一人旅行、車一台と運転手とガイドつきだ。ずいぶん贅沢な旅行だがブータンは一日の滞在費二百ドルを規準とし国家が徴集する。一人だと二百四十ドル。かような贅沢は国内の旅行と比べてはたしてどうかな。今はチベット国境が閉鎖されている。もともとパロはインドからチベットへの交易路(「一冊の本」の多田等観が通ったと思われる)と唯一といってよい平野をもつ盆地で昔からの米作を中心とする豊かな農業地帯。その故に二千五百メートルの滑走路のパロ空港が建設可能なのだ。昼食の後、しばらくパロのメインストリートを散策する。全体で五百メートル余り端から端へ歩いても十五分位しかかからない。ブータンには珍しい日本の国道並の広さ道路。雲一つないブータンの空と両側にある伝統様式の家並みが目に映える。とは言っても繁華街の店頭にはこれとて買うものが見あたらない。やっと仏具屋らしきところを見つけた。ブータンでは普通の家の仏間に飾られている幡類が多い。それも本来はオーダーメイドらしくミシンがそなえてある。声をかけるが誰も出てこない。結局あきらめる。ドンツエ・ラカンを参拝。一層が顕教佛、二層が忿怒佛、三層が歓喜佛であるとガイドブックにある。我々は文化庁長官からお墨付きをもらっている。が、鍵をもったものがお昼に帰っているといわれるとはいることができない。日本流に時間の都合で先へ急いで、山を登り、国立博物館へ。本来、パロ・ゾンの背後を守る望楼(タ・ゾン)として建設された。半円を組み合わせた複雑な構造になっており壁の厚さも場所によって違う。パロの初代王が十七世紀に立てたという。現王朝の初代王が父の命により反乱鎮圧のために出向いたが逆に捕まってここに幽閉された。一九六八年博物館となったが、九十年代の日本の援助で修復され、九十八年になって日本国外務省の文化無償援助の助成によってさらに修復されつつある。ここにはブータン古代石器類や七ー八世紀、十二世紀の仏教文化財。国内の熱帯から高山気候に住む動物達の剥製など時間と資料があれば面白い。地階には初代国王が幽閉されたという地下牢締め具、槍、寺院で使われる大釜が展示されている。最上階から見学して地階に至りそこを出ると展望台。納得いかないかも知れないが最初にのべたようにブータンは斜面の国、片方は地階でも片方は展望台なのである。ここからパロ渓谷が一望できてすばらしい。博物館からパロ・ゾン間では山道を徒歩五分ほど、ゾンの内部は例の事情でおとがめ無し、金沢の小谷さんもわれわれの一団といっしょに入ってくる。だが、カメラは預かるという。佛様の写真が礼拝以外に使われることを嫌うからだ。その点は当山御開帳中も同じ。他のゾンと変わりないがここで映画の撮影が行われたとの由。また、チベット街道の要害に建ちつい最近まで防衛の第一線であったゾンというにふさわしく今でも要塞といった感がある。博物館の上に中学がある。ちょうど放課時期の中学生男女が大勢元気よく降りてきた。坂道の中間で休んでいるものもいる。民族衣装の中学生達は恰好の被写体だ。迷カメラマン達は勢いずく、皆んなで県展入賞を目指すという。リュックサックを背負った中学生が益々増える。その中は重そうなの軽そうなのまちまちだ。重そうなのは本をたくさん詰め込んでいる。利口そうなのはこのタイプである。片言英語で話しかけると一番の秀才君を連れてきた。十人ほどのグループができる。こちらが取材するはずが「どこから来た」「日本、知っているか」「知っている。本で読んだ」等歩きながら、ゾンの前の昔ながらの屋根つきの橋を渡ったところまで交流。記念写真を撮る。帰って送ってやったのだが何とも行って来ないついたのだろうか。バスの中で希望者を募ってブータン式風呂をわかしてもらうようにホテルに交渉していたのだが、ダメだという情報が入った。それは本来は露天に水をため、そこに焼いた石を投げ込んでわかすものだ。今日は石がないのでダメとのこと。

 


納得がいかない話

昨シーズンダイエイホークスが福岡ドームの試合でテレビに映った捕手のサインを打者に知らせていたとして大騒ぎをした。しかし、泰山鳴動して鼠一匹の喩えどおり結局は何であったかわからないままであった。高校生でも甲子園のクラスのチームはランナー二塁で捕手はサインの出し方をかえている。二塁ランナーに見られるからだ。各試合をビデオで研究するのは当たり前のこと。プロ野球では映像機器等々駆使して相手の投手の特長、癖まで充分に分析されいる。投手ばかりではない盗塁するランナー、内野の動きによって次の作戦を立てる。よく知らないスポーツだが、アメリカンフットボールに至っては監督はヘッドホーンをかけ助監督からにのい情報を収集している。コンピュターで分析した結果も送られているとか。阪神、野村監督のID野球とは氏は二割バッターだが三割バッターへは次のボールが何かを予測することからはじまるという。氏の本に「稲尾投手の癖がなかなか捕まえられなかったのをやっと捕らえた。だが、あるオールスター戦で相棒の杉浦投手が『サイチャン、ノムさんは知ってるぞ』とだけいった。次からその癖はなくなっていた」とある。ヤクルトの監督になる前の野村監督に一日お伴もする機会があった。その話より切り込んでいろいろお伺いした。その時、氏のサインは手話に近いものであった。今ではあらゆる情報・手段を駆使して阪神を再建している。ダイエイの行為はほめたことではないにしてもあれだけ騒ぐ必要はない。たとえ先方にサインが漏洩しても、より強いボールを投げれば打てない。よりすぐれたバッターはそれでも打つ。西武松阪大輔投手の初登板のおり、日本ハムの上田監督は彼のストレートのみを狙わせた。将来ある松阪の最も得意とするボールをである。結果負けてもここのところ東尾監督はハムに登板させてはいない。これがスポーツの醍醐味なのだ。ケチなことをいわず情報戦は大いにやるべし、それがプロなのだと思うのだがいかに。


一冊の本 『チベット滞在記』 多田等観著 白水社

チベットへは河口慧海とこの著者が仏教界の二大巨頭である。慧海はインドで「チベット旅行記」を著し世界で有名になり、さらに日本語版(青春文庫全六巻)がある。私は平成八年の訪蔵前にたまたま書店で前の三巻を見つけ帰ってそろえた。一方本書を求めたものの見つからず、三年を過ごし先般新聞で求めた。なんとこれが初めてとは思いもよらなかった。お二人はだいぶ違いがある。慧海は黄檗山で経典の編纂に携わっていて、眞なる仏教はいかにという求道心から訪蔵を志し、財源を作って、先ずインドに渡り、チベット人から語学、西蔵仏教を学んで蒙古系西蔵人僧侶として密入国。ラサのセラ寺で研究するとともに日本で身につけた漢方医学で医者として有名になり、大臣の庇護を受け、ダライ・ラマ十三世とも謁見した。しかし、師は清濁をともに持つダライ・ラマ十三世からは授戒を受けないという非常な潔癖さだった。それに対し、等観は大谷光紹門主の西域政策の一環(後ろに日本政府か)で最初からダライ・ラマ十三世が直に招待し、当時の英国インド政庁の目をかすめてブータン経由で入蔵した。それからはダライ・ラマ十三世のために日本から送られてくる新聞を蔵訳して献上するという仕事の他、政治アドバイザーとして人頭税、金貨の製造等々も提案し実行された。そういった立場故にセラ寺でも破格な待遇で勉学に励むことができた。ダライ・ラマ十三世とはいつでも合うことができ、いろいろのおねだりもできた。日本から取り寄せた錦がことのほか猊下はお気に召し没後、十三世のミイラに着せられたという。しかし、慧海の場合はまさに旅行記であるが等観は十一年の滞在記、旅行は帰国間際だけだった。帰国後の二人も違う、慧海は民に生き、あくまで市井の持戒堅固仏教者として一生おくったのに対し、等観は東北大学、東大等の大学で学者として、私達の先生の先生という世代の学者をたくさん育てた。ともに日本人でありながらチベット人であったことが共通する。ダライ・ラマ十四世がダラムサラに亡命するまでチベット大蔵経等々西蔵仏教の資料は二人が紹介したものがほとんどである。


余録

緑が濃くなって、石楠花が咲き、続いて朴の花が咲く、その頃ホトトギスがやってくる。当山の一番良い季節となった。統一地方選挙がおわって地方自治体に活力がみなぎるはずではある。が、我が徳島県議の面々はそれほど変わりがない。某の地方自治体議員は「あと一期で年金がつくので当選させて欲しい」と。私物化もいい加減にしてくれといいたい。これだと地方自治体ならぬ痴呆自治体ではないか。ともあれ、当選した先生方初心を忘れずがんばって欲しい。