第219号

『君が代』の旋律の話

ブータン紀行7

一冊の本 

二冊の本

 

『君が代』の旋律の話

今国会で「君が代」法案が提出されるという。歌詞は問題になるが旋律については余り問題にされない。先般紹介した『声明の研究』編集の副産物として紹介する。明治の文明開化で極端に失ったものと逆にそれを失わず逆に西洋に影響したものがある。前者は古典音楽、後者は絵画等の美術である。また後者の美術分野には岡倉天心という外護者がいたがその天心も音楽は西洋が勝るとベートーベンを好んだという。こんな故もあって日本の古音階は次のことによって、意図的に破壊されていった。内藤孝敏氏は『三つの君が代』のなかで、明治以降の音楽教育を三期に分け、第一期(明治十五年から二十三年)を外国音楽に日本の歌詞をつけた時代「故郷の空」「埴生の宿」「蝶々」等。第二期(明治二十四年から三十四年)を国産奨励時代。「鉄道唱歌」「金太郎」「鳩ぽっぽ」「お正月」等、これらの音階のほとんどは五音音階を採用している。この時期、曲作りの上で大きな規制が行われたとしか考えられない。作曲家たちに音階が特定され、その使用が強く求められたのではないだろうか。その音階とは「呂(りょ)の五音音階」である。第三期は全ての唱歌が作者不詳の「文部省唱歌」とされ、文部省が著作権を有するようになったという。私どもの法会に使う声明(声明)は奈良時代から平安時代に輸入された。その音階は「律の音階」「呂の音階」であった。前者は日本人のフィーリングが合って盛んになり、これから日本独特の「中曲の音階」にと発展し、語り物の原型である「講式」を生んだ。だが、後者の「呂音階」日本人のフィーリングにあわずいつの間にか滅亡した。我々には「呂曲、長短高下なし」という口伝まである。このまま解釈するなら音楽としての体をなさない。もちろん声明の口伝として正しくないものであるが、これは「呂音階」滅んだことを証明するものでもある。このことは声明関係以外の音楽史でも明記されている。それなのに今では日本の旋律は四、七ぬき音階。即ち明治時代はド、レ、ミをヒ、フ、ミとよんだからヨ、ナ抜き即ちファとシが抜けたド、レ、ミ、ソ、ラ、ドの五音をいう。それが明治の国産音楽期になって、これが突然よみがえってきたのである。そして大正時代「夕焼けこやけ「七つの子」「夕日」等々の名曲を生んで日本の旋律という位置を占めてしまった。スコットランド民謡「蛍の光」アメリカ民謡「駅馬車」等もこの音階のためなんとはなしに文明開化の音がしたのかも知れない。だが、それだけでなく過去の佛教的伝統含む文化を破壊しようというのが国粋主義者常道的であった。ここでも彼等の陰謀ですりかえてしまった。かくして政策的に作られた「ヨ、ナ抜き音階」(実は「呂音階」)である。このような音楽教育で学んだ我々が今にのこる「呂曲」の声明を唱えるとき、それは滅びたとは言いながらこの旋律の流れを汲むものであろうか何か懐かしさを感ずる。「君が代」のメロディはどうか。先述の本をしばらく引用すると実は一番最初に作られた「君が代」あった。が、あまりにも単純で音楽の体をなしていなかっため、「明治二十三年海軍軍楽隊長、中村祐庸提出の国歌改訂案が実施されることとなり、一月、海軍省から宮内省に対して、正式に、新「君が代」の作曲が依頼された。当初、中村案に盛り込まれていたように、選出者が雅楽を学んだ後、作曲に取り掛かるのではなく、雅楽課へ直接作成が発注されたのである。ー中略ー半年後の六月宮内省から海軍省に数種の楽譜が届けられたが、応募作品の数、応募者指名などは明らかにされていない。そして、七月、楽曲改訂委員に任命された海軍軍楽隊長・中村祐庸、陸軍軍楽隊長・四元義豊、宮内省一等伶人・林広守、海軍省顧教師・エッケルトの四人によって審査が行われた。ー中略ー新国家「君が代」に選ばれたのは一等伶人・林広守の曲であった。ー中略ーこの歌は「律の音階」という五音音階で作曲されている。ー中略ー調整は「一越調」である。日本名で「ニ」西洋式なら「D」を中心とした調である。ー中略ー審査を終えたエッケルトは、早速この「律音階/一越調」作られた歌に和声をつけ、さらにピアノ用、オルガン用の伴奏譜と吹奏楽譜を作った」と内藤氏はいう。それが今の「君が代」である。「律の音階」はド、レ、ファ、ラ、ドからなり、いうならば「ミナ抜き」である。日本古来の音楽はこの旋律を中心に声明、雅楽、平曲、謡曲、浄瑠璃、浪曲等々と変化して日本の音階の元となった。それを明治以来、文部省唱歌に至る作意によって日本の本来の旋律「律音階」を失わせてしまった。そしてとって代わったのが「呂音階」であった。その中には戦争を鼓舞した軍歌もあるのだろう。世情で言う「君が代」反対論とは逆に日本古来のしかも国粋主義者の影響のない方向がここに見られるのである。即ち、文部省唱歌の系譜以前の西洋にはない雅やかな曲調がここにある。ドイツ人エッケルトもこれに気を使って「日本の国体にを考え最初と最後に和音をつけずにアレンジした」という。最初のユニゾンから歌い上げていく様は我が声明の「伽陀」を思い起こす。それを歌詞ばかりで論評するのはいかがなものか。


ブータン紀行 その七

早朝ドウプ尼僧院に詣る。ここは首都を見下ろせる山腹にある。車は昔の当山参拝道のような道を進む。対向車がいないから問題ない。山腹に広がるブータンの自然はどこまでも青い空と満開の花、所々に道路の側溝の水ががあふれ雨期の面影が残る。それを住人が皆んなで修理している。この風景は我が家の周辺にも見られたものだ。あまり仕事に精をださないでお喋りしているのも同じ。民族衣装の子供たちはお花畑のなかを歩く、それが狭い道を一列になっ通学している風景は何とも可愛い。ドウプ尼僧院はゾンのような厳しさがない。ガイドが朝の勤行をと勧めてくれるので全員で般若心経をあげる。その勧め様が敬虔な佛教徒らしい。尼僧さん達はかなりなおばあちゃんから子供までいる。年頃の尼さんは自前のトレーナーを羽織っている。せいぜいお洒落したつもりだろう。いっしょに写真を撮るとちゃかり自分のアドレスを書いていて「送ってくれ」と言う。でも近在の国のようにバクシイシー(インドでものを乞う言葉)はない。人なつっこくついてくる。男性の僧院に比べあまり厳しくなさそうだ。ここもある意味で孤児院を兼ねているのかも知れない。僧籍にあるものは学校へ行かないで僧院で教育するというが、尼さんの地位は高くないのだろう。首都ティンプーが一望できる小高い丘の電電公社アンテナへ登る。こういう施設は撮影禁止だが、下方のティンプーは大丈夫。ティンプーを取り囲む山々は数千〓頂上に至る。この丘と同じ位の高さの山腹には寺、個人の家が散在する。寺ほど大きいの個人の家は金持ちか権力者なのだろう。盆地の中央に位置するタシチョ・ゾン(祝福された宗教の砦の意)はやはり王宮。本山だけあって悠々とした建物である。今日は時間がないがもし再度来るならばぜひなかを拝観したい。降りてきて買い物をしてパロでお昼ご飯という強行軍、あいにくティンプーの町は全部休みの日、エンポリウム(国立百貨店といっても田舎のよろずや)で買い物、私の場合ドイツマルクでニュルラムに替えたので全然お金の値打ちがわからない。そこでいったんドル料金で計算してもらい。しかる後にニュルラムでいくらかと確認しないとわからない。要は今もっている現地の金を何かに替えればいいのだから気は楽だ。しかし現地織りのテーブルクロスを買おうとしてとんでもない金額を言われ驚いた。単なる計算間違いであったのだが。切手は有名だが印刷はこの国でやっていない、日本のデザイナーも参画しているという。その他、これといった買い物もなし、重厚長大のものはもって帰るのがたいへんである。結局、買い物には向かないお国柄である。


一冊の本 「金日正への宣戦布告」 黄長〓著  文芸春秋社刊

この文を書く現在、先般の不審船事件を北朝鮮は「カイドライン法案を有利に導くため日本政府がありもしないことをでっち上げたいる」という概要でコメントしている。不審船の写真もあり複数の国が北朝鮮に逃げたといっている事実があってもそんなことお構いなしという姿勢である。何かやっておいて「それはでっち上げだ」解決するためには「いくらだせというパターンにあけくれる」原子炉がしかり、ミサイルがしかりである。今では信ずる人はいないと思うが一時代前には信奉者がいた。それは各種の工作員を通じて各方面に働きかけていたからだった。そういう北朝鮮のやり方をこの本を読むとすぐ理解できる。氏は「何百万人の人民を餓死させながら戦争ゲームにうつつをぬかす、独裁者・金正日を打倒せよ」と世界に先がけて日本で刊行したのがこの本だ。北朝鮮で五本の指に入る立場にあり、実際にやって来た体験を交えながら、なおかつ、自分の知らないことはわからないという立場で貫く姿勢でこの本を書いているので説得力がある。今まで金日成のチュチェ思想だと思っていた。だが、氏が考えた思想だったという。氏の思想は金日成、金正日親子に歪んで利用せられていったという。だが一見、この思想家が自由世界の哲学者と比したとき、はたして第一等の学者として通用するのかとの疑問がないでもない。この本が刊行されると金正日は必ずテロを決行するだろうと命がけで本書を書いたそうである。


余録

三月十九日久しぶりの大雨であった。夕刻所用で山を降るとドライブウエーの側溝のあちこちにそこに詰まっっていたゴミが引き揚げられている。山の誰かが雨の中で作業してくれたに違いない。私も雨期には気にかかって道具を持って走るのだが今回は久しぶりのため思いが至らなかった。このように中津峰の住民たちは我が道路は自分で守るという気概がある。その上、観音様にお参りするみなさまを快適に通行(昔は歩行)頂くため、初会式の前、正月十日と四万八千日の前の七月一日それに近頃は一番草が生える九月にみんながでて草を刈り、側溝を掃除してくれる。誠にありがたいことである。五月十一日、十二日に高野山を団体参拝する。今年は前日の高野山に続いて当麻寺のボタン祭りをお参りする。詳細は当山に四月になって当山への参道が若干よくなった。一つは丈六の踏切が立体交差になったこともう一つは多家良バス停からの取り合い道が二車線化が完成したことである。今まで駐在所前の三叉路を右にとっていたのを二車線道路を左に進むとまわり角に当山の道標がある。後は流れにしたがって走ると二車線道路は終って、そのまま進む。