第217号

武市一夫奉賛会長

ブータン紀行5

高校入試 願書を出す前に

二冊の本

 


武市一夫奉賛会長

 

勲三等瑞宝章受賞 当山奉賛会長武市一夫先生が昨年秋の叙勲で勲三等瑞宝章を受賞され、受賞祝賀会が一月二十三日、徳島パークホテルにおいて盛大に執り行われた。出席者は私が出席者のなかで最年少の部類という風に長年先生とおつきあいのある方ばかり百二十人余り、盛大で和やかな雰囲気の楽しい会合であった。 先生は私が生まれる前の昭和十六年夏三人の学生仲間で当山に合宿、高等文官試験の勉強をされた。若い三人ががんばったから、父もがんばって私が生まれた。そこで三人にちなんで三津保(私の幼名)と名前をつけたとは先生の弁。かくして先生と当山の関係が生まれた。昭和十六年十一月高等試験行政科(高文)を合格、十二月に東京帝国大学を卒業され、満州国総務庁高等官試補として赴任され、錦州省にて理想国家建設のために尽力を尽くされた。現在、満州国建設は日本の植民地主義の象徴のようにいわれる。だが、日本の多くの有能な日本の青年が理想国家「王道楽土」建設のために青雲の志をもって渡満したことは事実だ。私はこういう側面にも目を向けるべきだと思っている。因みに満州国の法体系が現在の中華人民共和国の法体系より数段優れているといわれる。 終戦により徳島へ引き揚げ、一時木材林産組合で仕事された後、昭和二十四年徳島県庁にいきなり秘書課長、爾来昭和四十年副知事を退職されるまで、那賀川総合開発。県下の工場用地を開発と企業誘致。農林業県徳島のハード、ソフト面のの基礎づくり等々戦後日本の地方自治制度と郷土徳島の基礎を作りをせられた。 昭和四十二年徳島市長に就任され、当山参拝道路を徳島から勝浦町まで中津峰峰越林道として開設していただいた。今では当然のように使っているものの第一駐車場まで完成したのは昭和四十七年、それを日本で初めての林道舗装事業として第一駐車場までの完成は昭和五十四年のことだった。お年寄りに喜ばれている市バス無料パスも先生の市長時代にはじめられた。当時はまだ福祉に目が向けられない時代のことである。目に見えるもののほか地下の目に見えないものも促進された。それは浸水都市徳島の解消のため都市下水道の整備、排水場の整備である。当時排水場の管理者M氏は台風で夜中にポンプ場に駆けつけると誰かがいる今頃誰かと思ったら市長であったという。今の徳島駅前の盛況は西の丸運動場を田宮公園に移し、そこに内町小学校を移転して現在のそごうの土地を確保したことによる等々、つい最近まで武市市長時代のに大枠で市政が進められてきたことからも先生の手腕が知れよう。 当山奉賛会長には昭和四十五年大師堂再建奉賛会長としてご就任いただき、未熟な住職の初仕事をご指導ご援助いただき、その後、中津峰山如意輪寺奉賛会として名称を変更、そのまま会長をお願いして、防災施設新設、鐘楼門解体大修理、百味供養会百周年、大黒天奉祀三百周年の記念事業等々ことある毎に物心両面でお世話になっている。この機に感謝の意を表しお礼を申し上げたい。

 


ブータン紀行 その五

戦闘の要害として十六世紀に建立された最古のシムトカ・ゾンへ。現在のガイドブックは国語(ゾンカ語)教員養成の大学とある。だが、それは昨年までこと、教員養成の大学はゾンの外に大学寮と教室ができている。ゾンは外からしか見えないといわれていた我々は、玄関の広間まで行けたことで満足し、しばらくの間、地獄絵かと思われる立派なブータン美術の壁画を鑑賞する最古のゾンというだけにすばらしい。が、ここでも内拝許された。谷向きの大広間へ、ここでもすばらしい壁画が修復されている。下を見下ろすとゾンの意義理解できる。戦略上ブータン東西と南北の主要道路が交差し、眼下の動きが一望できる最良の場所だ。内拝しているとだんだんあわただしくなってきた。どうやら修行僧の夕勤行の時間らしい。今度は我々が見られ役だ。小坊さんが多い。後のパーティの席で高僧に聞くとここでは九歳までの子供たちに僧坊の生活になじませているという。孤児院を兼ねた施設ではなかろうかと邪推する。教員養成大学はガイドの説明で、当局から資料をもらったわけではないので正確ではないが、ゾンカ語というのは話すのは比較的やさしいが、読み書きは大変難しいものだという。まず四年間、さらに後期四年間、その上にパロの実習施設で二年間、合計十年を要するという。そして、言葉のみならず、文化、風俗習慣等々を教える先生になっていく。ただ今、教員養成途上というところだ。先述したとおりブータン教育は英語で行い。国語だけ特別に教えるというものだ。これはブータン王国が国際人を養成するためというものではなく、教育に力を入れだした頃、教員が不足になやみ、インドから教員を輸入したという事情らしい。とにかくこの教員養成大学はブータン王国の将来を担っている。でも、学生達はのんびりしていて夕勤行もさぼっているのがかなりいる。テンプーに帰って、民家を訪問する。旧来の日本の農家ぐらいの広さだが全部二階建て、(郊外では屋根までに倉庫がある三階建てもある)幅五十メートルほどの一木を半分に切ってそれに斧目を入れた階段より昇ぼる。とはいうもの薄暗いこともあって、昇りにくいこといったらいいようがない。二階はどの部屋も薄暗く中がよく分からない。炊事場も二階にある。明るい他の部屋とは別天地のような部屋に通された。仏間である。日本流にいえば二十畳ぐらいありそうだ。靴を脱いで入堂し、仏様に一礼して私は最上座の椅子に座る。一行がコの字状に座すとおもむろに女主人が挨拶に出た来た。この国の実体は女性上位らしい。チベットでは多夫一妻のところもあるというからヒマラヤ一帯がそうであるのかも知れない。先ず私にチャン(むこうの焼酎)を入れてくれる。チベットのヤルツアンポ川を渡る船の中ですすめられたものだ。そのときは先方が先に飲んで私に飲めといってくれたのだが、ここではカワラケ状のいれものなので儀礼的なものらしい。他に年輩の方はご存じの日本のヤゴメとよく似たもの、トウモロコシの煎ったもの、それにチベット特有のバター茶を出してくれる。奥さんはなかなか愛想良く接待してくれ皆んなで記念撮影をして辞す。先ず私が一番に先の階段に来ると下に牛が三頭うろうろしている。危なっかしい階段のうえに牛、こわごわ降りる。階段の次の部屋が牛小屋になっていてそこへご帰還らしい。ガイドはじめ皆んなで牛小屋にいれ、後のメンバーを降ろす。やっと出てくると隣のおっさんが土産物屋を開店している。なかなかいいタイミングである。自作の木工品のお玉杓子など懐かしい家具や楽器等がある。今日、最後の巡拝はメモリアルチョルテン先代の王様が作り始めて亡くなったので王女様が完成させたという。夕刻になっていたのでこの地の仕事を済ませた人々がお詣りに来ている。いっしょにお詣りしているとここでも中に入れという。そこで全員で夕勤行。さらに二層三層までもよいという。好奇心半分で上がってみるとものすごい忿怒尊である。チベットでは忿怒堂だけは入れてくれなかったところである。チベット仏教では寂静尊と忿怒尊にわかれる。常に礼拝する清らかな佛は前者。それに対し忿怒尊はお不動さまのような顔のうえ男女の合体物である。修行者が極限まで一体となることを求める。密教の教えを生半可に理解するとたいへんなことになる佛様である。一行に忿怒堂に入らせないのは誤解を生ませないから等々説明する。三層も忿怒尊、一層の寂静尊と全部関連しているものと思われるがチベット仏教の尊像学に疎い私には分からない。ホテルへ帰って今夜はパーティ(以下次号)


高校入試 願書を出す前に

高校入試の願書締め切りがせまった。いつも今頃この種のことを書く。それは私がいい加減な出願によって一人の若者をダメしてしまった事例を経験があるからだ。話はもう時効になっていると思うので具体的にのべる。昭和四十五年の頃。私は阿南工業高校の電気科一年生の担任をしていた。フレッシュマンの一年生は大半が電気が好きで入ってきた。彼等は好きなことができるので生き生きしている。だが、四十人クラスの内五人ほど異質な生徒がいた。一つは、その年の高校入試で阿南工業高校電気科は直前まで大幅に定員割れしていた。その情報をもとに某中学では商業科志望の生徒の上位を電気科にもってきた。そうするともう一つ底辺が高校には入れるというわけだ。もう一つは徳島市内の総合選抜高と普通科高校を落ちたものである。いずれも電気が怖いといった方がよい生徒であった。そのうえ、前者は通常の電気科の生徒より能力が落ちる。後者は普通科志望であるから実業高校になじまない。等々の問題があった。一学期中に今様の不登校がはじまり、とうとう夏休みが終わった時点では四、五人は学校を去っていった。ここで問題は前者の場合、実業高校に進むのに工業系、商業系、農業系への適性を考えずに単に点数のみでワン切りにした点に問題がある。別な体験では私が機械科の三年生を担任していたとき、学園祭には簡単な車を作って走らせたり、モニュメントを溶接して作るほどの能力を持っていた。だから、当時私が乗っていたバイクが故障しても「先生直そうか」と簡単な修理や改造をやってくれたものだった。それに慣れた私は高校生とはこの程度のものと思っていた。当山で合宿していた某商業高校の生徒と指導に来た先輩がバイクを貸せといった来た。貸したのだが途中でひっくり返ってエンジンがかからなくなってしまった。綱で後輩達に引っ張らせて帰ってきた。ところが工業系なら絶対に架けないところに綱を架けている。エンジンもちょっと手をくわえると簡単にかかる状態である。このときほど工業系と商業系の差があるものだと思ったことはない。中学卒業時は同じであった生徒達が「好きこそものの上手なれ」の喩え通りものを作ることが好きなものが工業系に行き、商売好きなものが商業系に行く、そして三年経つとそれぞれに自分のものになっているのである。ところが人と話すことが嫌いなものが商業系に行く、機械や電気の音を聞いただけで卒倒しそうになるものが工業系にいく、田圃がないのに農業科に行く、これほど不適正はない。普通科高校に進んでもやがてはまた進路選択は避けられない。高校に願書をだす今、自分の子供たちの適性を考えてやる最良の時である。ゆめゆめ偏差値のみによるワン切りに従ってはならない。


二冊の本

増補・改訂版『声明の研究』 『南山進流声明五線譜』  岩原諦信著 山田戒乗編

声明とは仏教寺院の法会で唄われる音楽をいう。奈良時代に日本に伝わり、独自な発展をした。また、日本音楽は声明から平曲、謡曲、浄瑠璃、浪花節そして演歌と発展し、ずいぶん声明の影響を受けた。一方声明そのものは寺院の片隅でささやかに伝承されていた。父の畏友に岩原諦信和尚がいた。中学の時から父に連れられ和尚のもとに行き、声明を習ったものである。和尚は六十年前それを近代音楽の手法を用い集大成した。そして五線譜に書きとめることを試みた画期的な研究が『声明の研究』であった。それをもとに約十年遅れ、ややコンセプトを違えて発刊したのが『声明教典』である。後者が十年の歳月があったため五線譜が曲目、内容ともに充実していた。これを私が二本を一つにして擬古文を現代文に書き直し大幅に改定したのが増補・改訂版『声明の研究』である。また、『声明教典』の五線譜は手書きであったものをコンピューターグラフィックの技法を使って書き直したのが『南山進流声明五線譜』である。平成の初めに企画してからずいぶんかかってしまった。ともに信者の皆さんの手にしていただく本ではないが、私がこんなこともやっていることも知って欲しく紹介する。


余録

インターネットのホームページのアドレスはhttp=//www.nmt.ne.jp/~nyoirin/naka_top.htmlです。まだ一部工事中ですが、閲覧可能。Eメールはnyoirin@nmt.ne.jpです。これからだんだん発展きますので楽しみにして下さい。