第216号

平成十一年年頭

ブータン紀行4

己卯歳の話

二十一世紀 というけれど

本堂に入った泥棒

余録

 



平成十一年年頭に


 今年は、四月には統一地方選挙がある。それにわが徳島市は昨年末、第十堰のに関する市民投票の請願が出されたから何かの結論を導かね ばなるまい。だとすると 政治が近くにある一年という特色ということができる。
 日本の国の組織或いはシステム、昔よく使われた言葉なら国体(国民体育大会にあらず)は代議制民主主義を根幹としている。古代ギリシャ のようにどこかの広場に市 民が集まって集会を開いて決したり、現代のある国のように直接投票を行って決めることはない。その代わり代表者権 限を委任して政治をやってもらう。代表者は地方自治 体では選挙によって選ばれ施政権をもつ首長と議決権を有する議会議員である。だから我が 町(市)の政治をよくしようと思えば良い人が先ず立候補すること、そして選ぶ ことである。だが、選挙に立候補するのは何か悪いことをしている ような雰囲気なのが昨今である。
 そこで、一つ提案したい。とりあえず百人が連盟を創くる。まず供託金を連盟に納める。しかる後に全員で立候補する。結果、当選するもの、 落選するもの、供託金没収のものが出るだろう。そこで、当落の結果がどうなっていようとも連盟員の没収される全供託金の金額を差し引いて皆 んな一律に返還する。こういう連盟を各市町村及び選挙区につくると悪徳政治家の半数は駆逐できるであろう。なぜなら、悪徳政治家は立候補者 が少ない昨今そのうえに成り立っている業者なのだから。この運動は何の意味を持たない住民投票より数倍の効果があることは間違いなし、そし て正論なのである。
それでも悪い政治家は我々の身の回りにつき纏う。我々善良な市民は悪い政治家にレベルを会わせてしまっている。本当は 人を助け、景気を良くするのはやはり政治なのである。我が畏友、東林院住職近藤龍彦師は宗教の限界を知って市会議員をしている一人である。 誰だったか忘れたが「その国(或いは地方)の国民(住民)と同程度の選良が選ばれる」といったのはよく言った言葉である。悪い政治家は選 んだ方が悪 いのであると割り切って考えてはいかがだろうか。それがいやなら先の運動を実践してはいかがかな。


ブータン紀行 その四


プナカよりウオンディ・フォダンに向かう、一度もと来た道を引き返しさらにくだる(南下と山を下るの両方)先にチュー・ラから降りてきた付近一 帯はブータンには珍しい平地もある豊かな農村地帯だ。だが、パロのように近代化が進んでいない。ウオンディ・フォダン・ゾンに近づくとだんだ ん断崖の底のようになってくる。その上にそびえ立つのがゾンである。ベストショットの位置で車を止めた。私は巨大で見事なサボテンの花を撮影 をしていた。そのとき「痛い」と女性の声、お隣のサボテンの葉を踏みつけた。日本のものなら考えられないのだが、五pほどの棘が運動靴を 突き抜いて足に刺さってしまった。このサボテンは帰化植物ではなくこの地方を山から吹くおろしてくる乾燥風によって自生したものだという。五b もあろうかという高さに赤、黄と原色の直径一尺(三十p)ぐらいの花がまっさかり。
 橋を渡ってゾンへ行く、橋のたもとに関所があったインドからの密航者を取り調べる。我々も書類でチェックされるから国民の移動も取り締まって いるのかも知れない。 ブータンに入ってこのような関所は二度目最初は先にのべたチベット、ネパール、ブータンのチョルテンの上の橋のたもとに あった。 レストランで昼食。といってもホテルから弁当が用意されている。パンチュと呼ぶ片手ぐらいの大きさの貝殻のかっこうをしたこの国独特の 竹の民芸容器に詰まっている。内容はともかく容器がおもしろい「持っていっ ていいか」と聞くとOK、よいお土産ができた。
 下がり、下校時間となった。ゾンへ下っていく我々に人なつっこく子供がついてくる。ブータンの小中学生は英語ができるので、しばらく友好の ひとときをすごす。 ゾンへは例の通り外国人は門前払い。しばらくガイドが交渉する。ここでも奧へ奧へ入れてくれる。二階の講堂の内陣にて勤 行「ほんとにいいのかな」と思う。現地の坊さんを見る我々に合掌している。私が偉い坊さんと思っているのであろう。こちらは何も嘘をいって いるわけではない日本での私の立場は向こうでは相当高官になるわけだ。あとで聞くとこの地方の知事さんがお忍びで遊びに来ていて特別許可を くれたらしい。帰りにお礼に行くとゴを着ていないので恐縮して、写真撮影に応じてくれた。 中庭では明日からはじまるお祭のリハーサル人々はこの日のために練習している。おそらくここから見える範囲の家々から数時間歩いて集まってきたのであろう。音楽踊りともにゆっくりしテンポのも のだが、日本のどこかできいたことがあるメローディでもある。発声は山々にこだまするようにか、日本の民謡にように高い声で唄う。  このゾンの対岸一帯は下の川縁から空にもとどきそうな棚田、米の二期作地帯で裕福な農業地帯だという。家々も大き い構えで十軒ぐらいがかたまっている。それにしてもあんなうえまでどうして登っていくのだろうか。 チベットではこんな家々が土砂崩れで一夜の内になくなっている例をたくさん見た がここではそんなことはない。


己卯歳の話

 平成十一年(一九九九年)は己卯(つちのとう)の歳です。己は古文によると三横線と二縦線即ち からなっており、絲筋を整える、紊 乱を規律するという意味であります。小篆では即ち内屈曲する形で紀と同じく己を正すのを本義とする文字であります。そこでうまく伸展しないで、とにかく屈曲が多く、利己的になる形勢を表明しています。卯は(ぼう)という音で「冒」に同じ、茆、茅と同じ意味です。これは陽気の衝動です。陽気が衝動し発生するというのは草木が茅や葉がしげることになり、茂るに通ずるわけです。また、「卯」 は説文では門扉を力を合わせて押し開く意味があります。その門を開けたところが茅や雑草が茂った未開墾の地であったかも知れません。 その未開墾地に一番早く住みつくものが兎であります。これがいつの頃か、卯が兎になったものと思われます。 己と卯がかさなった「己卯」は筋道を立てて処理していけば繁栄に導くとができる。けれども、利己的な立場をとり筋道を誤るとこんがらがって、いばらや茅 の株に悩まされることになります。その果ては混乱、動乱、そしてついにはぶちこわし、 ご破算になるぞと警告しております。

(安岡正篤著 『千支新話』より 近藤義二)


二十一世紀 というけれど

 政治家やジャーナリズムで「二十一世紀にたえうる人間をつくるため・・・」等々が使われている。  二十世紀始まりは明治三十四年である。日露戦争の頃も二十世紀なら湾岸戦争も二十世紀である。その間、兵器のみならず生活様式、文化、環境等々ずいぶん違う。な のに同じ二十世紀とはこれいかに。その間、「戦争に次ぐ戦争の世紀で二回も世界中が戦争する羽目になった。あげくは最終の人殺し兵器 原爆なるものを作って、使った世紀である」と、ひとまとめにできるかも知れない。だが、我が日本は幸い、そのうち半分の五十年は戦 争がない。これまた不思議な半世紀である。また、過去の世紀にも百年戦争等々やはり戦争に明け暮れたのである。このことからも一世紀、百年を何かで括ることは容易でない。
 だから、「二十一世紀云々」などもってのほかと思っていたら、雑誌「フォーサイト」の巻頭に(論ずべきは「2000ひとけた年代」とい う論文にであった。  論旨は、七十年代、八十年代、九十年代というように基本的には十年単位(英語ではdecade)で時代を語るのが常 識だった。十年というのも便宜的単位かも知れないが、時代のテンポから考えて理にかなった単位であったと思われる。そして、二年後 の二千一年から二千九十年まで含まれるのだから。これだけ遠い未来を語るのはSF的空想の世界で、現 実の政治・経済や社会の議論と しては、あまりにも大ざっぱで無責任である。しかも、おそらく多くは二千二十年ぐらいまでのイメージしかないのが実状ではないか。ここに、今の政治・行政・ジャーナリズムの「知性の衰弱」が象徴的に表れていると入っても過言でなかろう。さらに、九十年代の次の呼び方がまだ決まっていないという事情
がある。一体、二千年から二千九年はどう呼べばいいのか。
 実はアメリカでは既に議論がある。ニューヨーク・タイムズの名コラムニスト、ウイリアム・サファイアが@この十年間は必ずまん中 にゼロが二つつくこと、Aゼロを英語ではoh(オー)と発音すること、Bohには、驚きという意味があり、驚異的な十年になるだろう。 という予感をこめて「the Ohs」と呼んではどうかと提言している。  アメリカもこの呼び方が定着しているわけではないが、そろそろ 日本でも、この十年の呼び方を議論すべき時にきているのではないか。私案として「昭和ひとけた」という表現から発想して「二千ひと けた」という呼び方を提唱している。  さらにこのことを「大事なのはこうした議論を通じて『二十一世紀の日本』などという曖昧でザッ パナ議論をするよりも、もっとリアリティのある、この先十年の日本のあるべき未来像を具体的に構想し、その実現へ向けて、さまざま な対策を講じていくべきだということである。それこそが、現在の混迷から抜け出る一歩となるはずだ」という。  この論文に目から鱗がとれる気がするのは私だけだろうか。


本堂に入った泥棒

 昨年、十二月二十日午前二時三十分、朝というより深夜といった方がよい頃のことである。私はふと目を覚ました。本堂の泥棒警報が 鳴っている。鳴ったから目を覚ませたのかも知れない。当山の防盗装置は敏感なので時々夜中にネズミやむささびが走っても警報を発す る。警報が鳴っても一度解除して再び警戒態勢にするともう走り去って鳴らない。設置された頃はすぐ本堂まで駆けつけたのだが、昨今、 我が家のマニアルでは警報が鳴ったら一度解除して再びスイッチを入れるとしている。それで今までは異常がなかったのである。 だが、この度は何回やっても警報がやまない。どうもおかしい。寝間着の上に防寒具を着て、私が歩いて家内が車で第三駐車場から駆けつけるも 本堂の戸は締まったまま、やれやれと思って念のために本堂へ入り、電灯をつける。夕方降りたときの内陣正面のお供えが違うと調べて いるところに御宝前の前机と香盤の付近に顔がある。女かと一瞬思った。すると運動靴を両手に履かせて出てきた。気がついたら押さえ 込んでいた。そこへ家内の車の音、「はよう、一一〇番」二時四四分のことであった。それから副住職を起こしこちらも手勢がそろったと ころで持ち物を調べる。高知の二十二の男、家内は「お母さんがなくよ」お説教、「ほんの出来心で・・」 「アホこの時間に出来心ってあ るか」ポケットはかなり重いお賽銭が入っている模様。そうこうするうちに先ずパトカーが来てくれた。これほど強い味方と思ったこと はない。
刑事さん、駐在さんが来てくれ、やっと安心した。  ところでこの男免許証がない。私が最初に聞いたときは確か歩いてきたの ではないと言った様に思うと話していた。副住職が気になり車で第一駐車場に見に行った。まん中の岩陰に車がいる。見に行くと高知ナ ンバーである。逃げられないよう車でバリケートを作って待っていると刑事さんが降りてきたので告げる。職務質問を聞いているとなん と泥棒の母親であった。泣くはずの母親に扇動されたのだろうか。親子が拘留されたのはもちろんのことである。


余録

 インターネットのホームページを開設します。アドレスはまだ未定。当山案内、御祈祷申し込み、相談、それから スオミ大学の日本留学事務局、アメリカの大学本部、教授、留学生、或いは高野山金剛峰寺、まんだら霊場のホームページとつながる ようになります。正月から開設予定でしたが、若干工事が遅れます。
 近藤義二氏から安岡正篤先生のご本を紹介いただきました。先生は昭和五十八年末に亡くなられましたが近藤氏 は先生を囲むサークルに今も参加されています。また、安岡先生終戦の詔勅の草案を書かれた方。先生のお兄さんは 大師堂の扁額を揮毫していただいた堀田真快元高野山真言宗管長猊下。父の友人で私は学生時代より昭和五十九年に 遷化されるまでかわいがっていただいた方です。