第207

 





痴呆性のお年寄りとのつきあい方



 AさんはX川の流れにしたがって広がるY町に住む。二千戸余りのこの町は昔ながらの顔対顔の町である。ゆえに福祉政策が最もやりやすい町なのかC福祉法人の老人ホームを中心にお年寄りへのボランティアの盛んな町である。といってもボランティアはともともと土地の古老である入寮者とは昔から顔なじみといった関係なのだ。
Aさんは両親を看取った直後、ボランティアの組織ができたので一番に志願し、毎月欠かさず奉仕をしている。このような経験からお年寄りの介護はなれている。関係者の名前も家も分かっていて、お年寄りからは「おばさん々々」と慕われている。
 ある日、川下の県都Z市に行って、夜遅くなってしまった。かれこれ夜の十時になっていただろうか。Y町に入るとショートステイで顔なじみで川上に住むBさんが一人で川下に歩いていく。帰りを急ぐAさんは何気なく通り過ごしてしまった。が、Bさんが気になってしかたがない。方向転換をしてBさんを追った。「Bさん、どこへお出かけ、川下へ・・」「そうよ」「あんたは?」「私も川下へ」「乗ります」「はい」と素直に乗ってきた。だいぶ興奮している様子。Aさんは川上には走れなくなってしまった。しばらく川下に走って「あそこの桜がきれいね。ちょっと見ていきましょうか」ちょうど満開の桜をライトアップした公園があるのを思い出した。しばらく世間話をするうちに興奮状態がだんだんほぐれてきた。「ところで家の人にいってきた」「いや」「じゃあ、電話かけてあげる」「お願い」Aさんは電話をかける間に逃げだしはしないかと心配しながら公衆電話をかけた。家族を呼びだし家の門口まで出てくれるよう頼み、再び車に乗って動き出した。だいぶ落ち着いてきたので「Bさんもう家に帰りましょうか」「そうね」それを聞いて方向転換したAさんは一目散にB家へ急いだ。明くる朝、Bさんの夫から電話で「実はあまりにもトンチンカンなことをするから、相当しかりました。だけど、二階に上がって寝ていたと思っていたのに知らずに大変ご迷惑をおかけしました」と。
Aさんがいう。「Bさんは痴呆状態。叱りつけるとますます興奮して痴呆がひどくなる。場合によっては暴れだすかも知れない。一度落ちつかせて納得をさせて処置しないといけない。痴呆といって本人の意思を無視すると良い結果は生まれない」という。




ナイフ


 昨今中学生のナイフによる事件が多い。
 日本は秀吉が刀狩りをして以来、武士という刀を持つことに精神的にも技術的にも訓練されたもののみ武器として持つことができた伝統を持つ国である。武器を持つ権利を憲法で保証するアメリカ合衆国とはちがう。
道具としての刃物は私の年代(戦中戦後)は肥後の守のナイフで鉛筆を削った。それは折りたたみ、砥石で研ぐ、鉛筆削り以外に切る、削る、穴あける等々何でも器用に使った。その間に研ぐ、使う技術が取得されていった。喧嘩に使うことはまれだったし、今ほど事故もなかったと思う。それを使う間に時々手を切ってはその痛み、血のでかたなど体得した。だが鉛筆削り会社の策略によって「持つな持たすな危ない刃物」と教室には鉛筆削りが備え付けられ肥後の守は消えた。これ以来、子供は器用さを失った。ナイフは武器以外存在理由がなくなってしまった。
これらを一元的に論ずるのはよくない。
 次のような考えも一例だ。我々はテロリストではない。けれども飛行機に乗るときには武器検査が義務づけらる。我が友人は葬儀に使う剃刀で引っかかったという笑えない話もあるほどだ。これが社会の常識だから辛抱している。学校においてこの類の持ち物検査はいけないのか。信頼関係がなくなるのか。我々は何もしない航空会社の方が信用できないのだが。
 もう一つ、学校の先生は生徒の安全を守ることが第一である。自ら生徒に刺される先生がいた。ご自分の危機管理意識やいかに。人が怒っていることがわからないのだろうか。こんな先生に大切な子供を任せられますか。ある公の会議でそう発言したら、ある校長先生は「教育現場で命を取られることは考慮に入れていない」と。そんな馬鹿な。いったん生徒を校外に連れ出したらそこには交通地獄。遠足、修学旅行はどう思っているのか。私の教師時代校内でも「先生部室に来い」という経験はいくらもあった。幸い殴られる前に話をつけたが、殴られた同僚はいくらでもいる。「ナマナマするのもいい加減にせい」といいたい。教師は命がけの職業なのだ。
多元的な見地から教育を論じ、神戸の検事調書も二度とかかる事件をおこさせないための資料として読んでいく度量が大切である。



益田祐助翁逝く



 私が小学校位の時から、毎月々々今様なら「鳴門金時」を肩に担いでお詣りされていたのが益田祐助翁であった。昭和三十年始めのサツマイモはつい先日まで主食代わりのイメージなのだが、翁のお供え下さるものは全然違う。私達は「お芋のおっちゃん」と呼んだ。そのうちにこれが里浦の名物となり、鳴門の、徳島の名物に発展し、今の「鳴門金時」ブランドになったように思う。翁はその元祖・先駆者であった。
 一人で歩いてのお詣りが、奥様といっしょ、息子さんの車と変化があっても最近まで月参りを欠かさなかった。たぶん昭和五十九年と思うが、ひん死の重病になって、子供たち親戚一同が集まった。翁は「もう死ぬのならお観音さんの水を飲んで死にたい」という。子供たちは水を求めて当山に来た。が、あいにく歴史に残る降雪のため仁王門から上は凍結していて車で上れない。歩いて本堂で水をくみ翁に飲ませた。見る々々よみがえった翁は「観音さんの水はありがたい」と。村の古老の言葉にみんなが競って水を汲みに来る。そんな話をするとニコニコされるのが翁だった。一月に九十九歳の天寿を全うされた。心より哀悼の誠を捧げます。



余録



 一月のある日。本堂石香呂裏と大師堂の賽銭箱の引き出しがない、早速警察に来てもらうが、引き出しは出てこない。中津正夫さんに材料を頂戴し、宮前建設、宮前稔さんが仁王門屋根の応急処置、同前の観音堂の門扉とを併せて修復して下さった。紙上で借りてお礼申し上げます、ありがとうございました。私の記憶では賽銭泥棒はあったが、引き出しをやられたことはない。それにしてもあの大きな引き出しどこへ持っていったのか。