第205

チョットいい話 霊験記 余録


チョットいい話


 その一、ある日の「徹子の部屋」永六輔氏がでていた。テ−マは表題どおり「チョットいい話」永さんと南晴雄さんが公演にいったとき、とある小学校前で二宮尊徳像に出会った。永さん「どちらか一方にすればいいのに僕はこんなの嫌いです」「いや、君ねえこれは尊徳さんのかえりの姿だよ」と、私は思わず吹きだしてしまった。そして瞬間頭をハンマーで殴られた思いがした。
 一生懸命働いて本を買った。二宮尊徳といえども所詮子供である、家に帰るまで待っておられようか、だから本を開けむさぼるように読んだのである。徹子さんは「それなら荷物は空荷なの・・」と「それは往きと復りを一緒に表現している」と永さん。さすが寺の生まれである。 仏様のお姿はこの種の表現が多い。如意輪観音様をはじめ、十一面観音様、千手観音様等々それは時間と空間を同時に表現している。それを二宮尊徳像で解釈するとは私は思いもよらなかった。最近人気のない二宮尊徳さんこう解釈すれば大人が押しつける倫理観ではなく、率直な子供たちの心と同じ目線に立って再び見直すことができるではないか。実は地元、宮井小学校の尊徳像は父が建てたもの「いらんことをしてくれたなあ」と前に立つたびに思っていた。が、この話を聞いてすっきりした。頭をハンマーで・・とはそれを一番知っている私が南さんの発想ができなかったことによってである。
その二、最近の不況から日本的経営、日本人の歴史観、日本の伝統文化等々日本全体の自滅的評論が多い。そんななかにあって『文藝春秋』二月号に誌に横河電機社長美川英二氏の『我が社に首切り、定年制はいらない』「不況の時代こそ経営者は知恵を絞り、終身雇用制と家族主義を守るべきだ」の論文に感動した。氏はアメリカ型経営がもてはやされているこの時代に、会社は家族である、働く意志さえあれば一生働けるシステムをと模索してきたという。
 我々にはなじみの薄い会社だが、メーターや計測器を中心に日本を代表する先端技術を持つ会社で、私が工業高校奉職中から超固い会社でならしていた。八二年前創業、本社だけで六千七百人、グループでは二万七千人、九六年の売り上げ八千八百億円の大企業。常にメーカートップクラスの給与を払い。不況時のクビ切り、給与・賞与を下げて乗り切る方法はまずとらない。同時に同社の株配当は七円五十銭の安定配当を保っているという。
 そんな一見高コスト会社がどうして生き残れるのか。それには「新幹線発送方式のコストダウン」一%二%というコストダウンでなく三〇%というためには在来線の改良ではダメ、新幹線をつけなくては実現しない。要するに全く別なアイディアで生産しろということである。この方式は世界トップ企業ジェネラルエレクトリック社の教科書に採用されているという。また「百の仕事をまず0に」という発送もおもしろい。非生産的な総務・経理部門が同社は四七人いた。その部門の人員を半数にしろと命令すると「できない」と答える「では全部やめてしまえ」そうすると0になる。それでは会社が運営できないから「どうしても必要な仕事はどれか」それなら何人必要かという積み重ねをすると二三人になったという。美川氏はこの「ゼロ発想」が行革に応用されればもっと進むだろうという。
 美川氏はむすびに「家が貧乏したからといって、家族を放り出すことがあるだろうか?喜びも悲しみも分かち合うのが家族だ。会社が苦しければ今まで白米を食べていたものをイモにしてでも分配しあって喜ぶ。しかし、経営者はイモは食べさせない。一度しかない人生社員が一生振り返ったとき、人生の大部分を横河で過ごして幸せだった、と思ってほしい。そのためにあらゆる方法を考えるのが経営者の務めである」として日本式の家族主義を貫いていけるはずだと説く。久しぶりにスカットした気持ちになった。


霊験記



 東京在住の小林信一さんは美容材料卸、小林ビューティ社の社長、成功談が経済誌を載るほどの人である。奥様の美江子さんは鳴門市の出身、ニューヨークの美容コンテストで優勝するなどの多くのコンクールに入賞経験を持つ俊腕の美容師、美容室「魔法の手」主宰し傘下は数百人を数え、芸能人はじめ日本の有名人の美を司り、時々は本人もテレビにでる。この夫婦に一粒種の高也くんがいてただ今、リトルリーグ(国際組織の少年野球・硬式)で活躍中という家庭である。
 十一月三十日、忙しいご夫婦は高也君に暖めて食べるようにとシチュウーをこしらえ、それぞれ仕事にでていた。食事時になった高也君はいわれたとおりガスに火をつけた。が、宿題に夢中になり、そのことを忘れてしまった。パーンという音で我に返った高也君は台所にかけつけた。爆発した台所は一瞬にして無惨に飛び散ってしまった。その残骸のシチュー鍋のなかに当山の火防守が入っている。それだけで鎮火していた。 マンションの台所はガステーブルの上を覆うようにダストが迫ってきている。だから、火防守は別コーナに祭壇を設けておまつりしている、コーナからコーナへは数メートルはあろうか。それがどういうわけかシチュー鍋に飛び込んでいた。本来火事になっても不思議でない爆発なのにそれだけで助かった。十二月初旬、電話でお話を聞いたあと、正月台湾でのリトルリーグの試合を終わって一目散に当山にお礼参りをして下さった。


余録

二月四日、テキサスで女性の死刑が執行された。百数十年ぶりとかである。その報道が全くお粗末だ。死に至る言葉のお粗末さである。天国ぐらいまではよいだろうが、極楽がキリスト教にあるか。日本人の仏教の死生観と断片知識でもってキリスト教国のそれをいうなといいたい。 ナイフで女教師が刺し殺されて以来、中学生のナイフによる事件が多い。ずっと昔は「持つな持たすな危ない刃物」という標語があって鉛筆削り用のナイフまで取り上げた。結果、不器用な生徒が増えた。以来、子供は刃物を持ってはいけないもの、いないものと思っていたらとんでもないナイフが現れた。しかし、それは何かの法律に触れるものではないのか。プライバシー云々とは先生方何を思っているのか。昨年クビをはねた中学生をもう忘れたのか。それにしても誠の気の毒だが、殺意を持って刃物を持った人間にそのまま刺される先生に大切な我が子供を任せられますか。