第203号

年の終わりに

尾崎俊二翁逝く
余録




年の終わりに


今年も残り少なくなった。混沌として明けた平成九年は経済面でははっきり色分けの方向で終わりつつある。
筆者個人としては充実した一年であった。
新しく坊さんになる式を得度式という。それには戒師、教授、証明師の三役が必要だが、中心となる戒師役を今年一年で三度努めさせていただいた。戒師、教授を親子で二度でもあった。管長様にでもならないかぎりそう機会に恵まれぬない。だが、私はどういうわけか通算で六度になった。同年ではおそらく他に類があるまい。阿南市宝田町密蔵院の良戒君には得度式に続いて真言宗の僧侶として不可欠な行である「四度加行」の阿闍梨(指導者)もさせていただいた。敬宝尼以来十五年目である。幸い私が四度加行を指導する相手は皆んな優秀である。ことに明治大学理工学部の二年生である良戒君はもういうことなしのできであった。また、大般若経転読法会の導師も一年に六度努める機会にも恵まれた。地域的には北海道(得度式・大般若導師)から沖縄(晋山式・先師忌導師)までお声がかかった年でもあった。
 永年の宿願も稔った。仏教の伝承音楽のことを声明という。今から六〇年前、父の友人がそれを研究して世に問うた書物『声明の研究』『声明教典』の二巻があった、それを合冊して難解な擬古文(本当は文章がなってない)を現代語にする作業を数年来していたのが完成した。本誌が世に出る頃刊行の運びとなる。この書物の意義は日本人がドレミの音楽教育を受けていない時代の伝承者がこの時代までである。その時代の伝承を次に受け継ごうと研究した書物だからだ。換言すれば声明研究の古典として名高い。が、読んで分からぬのでも有名な本でもあった。因みに読者の皆さんには買ってくれとはいえない代物である。編集中、音楽の造詣が深い矢野医院の矢野八重子奥様には何回もご指導いただいた。
 本誌二〇〇号の発刊も記念すべき事柄であった。私的にも長男弘乗が結婚して、家族が増えた。夫婦ともに当山後継者として育って欲しいものである。
 概して坊主の分野で思い出深い一年であったが、公私ともに不思議でありがたい年であった


尾崎俊二翁逝く



 
当山慈母観音をはじめ、結縁八体佛等々多くご寄進いただいた尾崎俊二翁が十一月十五日ご逝去された。
 翁は全国各地の神社仏閣、社会福祉施設、観光施設にハ−ドとソフトを併せてたくさん寄進された。翁というには年齢が若干足りないと言われるかもしれぬが社会への貢献において私は翁と尊称したい。
 ある朝、翁から電話がかかってきた「尾崎じゃが、お宅に慈母観音を建てる計画があるというが・・」「はいあります」実は有志が言い出したところであった。「ほなわしがしょうか」「お願いします」「大きいのがええか、小さいのがええか」「できるだけ大きいのがよろしいなあ」「ほな調べてみるは・」 お昼になって「大きいのがあったが、カタログ見てくれ」「はいお伺いします」次にこちらが建立場所を見て頂くため来山。二度目の来山が土公供(地鎮祭)三度目が落慶法会であった。こう書くと旧知のようだが、朝の電話が初めての出会いであった。結縁八体佛も同じような経過でご寄進いただいた。翁に御寄進願うと最初計画した位置からだいぶ違うところに決まるのだが、ベストの位置に納まる。翁の選択眼がさえている証拠だろう。
平成二年十一月二十三日、高野山真言宗管長阿部野竜正猊下より、これらの功績をたたえて特別の褒賞状が贈られた。
ちょうど八体佛を計画している頃。小松島市田野町に義経が小山に旗を立て兵を集合させたという旗山がある。ふるさと再生を願う小松島市はそこに義経像を建てたいのだが、その財源がない。翁が乗り出した。だが、それは五十五号線バイパスから見えないと意味がない。それも六十キロ余りで走る車からである。必然的に巨大なものになる。あちらこちらと寄進される翁のもとには富山県高岡の鋳物技師が直接やってくる。技師曰く「大きいものは作れるが、義経は騎馬武者である。馬に乗った姿となると輸送時に首がつかえて、北陸街道の国道トンネルが抜けられない。よって希望の大きさにできない」と。翁は「なら、馬を立ちらせ」と一括。技師と私は意味が理解できなかった。しばらくして「わかりました」技師、私は翁から懇切丁寧に説明を受けるまで分からぬまま。読者の皆さん分かりますか。かくして、立ちあがった勇猛果敢な義経像が旗山に立ったのである。だが、私は旗山前の国道を通るたびに笑えてならない。
 作詞家、尾崎俊は「男浪み」他数曲のヒット曲をもつ、高野山に同行するときなどはいつも翁作詞のカラオケを仕入れて皆んなで歌うと翁はニコニコ。楽しい想い出である。
 晩年入退院を繰り返されたが、十五日早朝皆んなに看取られて大往生をとげられた。
 通夜から雨が降ってきた葬儀の間も相当な降りだ。だが、出棺になって雨は上がった。多くの会葬者は傘がいらなかった。が、会葬者が散会すると再び雨である。翁のなせる技と思えてならない。こういう強烈な個性の方が少なくなるのはさみしい。

 


余録



 
宮澤元首相の国会質問を見た。歴史に問い、経済学を駆使しおおきな問題をつき、さらに具体的な問題をあげて細かいところの核心をつく。これぞ国会質問と思わせるレベルのものであった。その前日のTVで、宮澤氏と竹村健一氏の会話、ー前略ー「こんな時代には一つ大蔵大臣をやってもらえませんか」「かっては高橋是清さんが総理のあと蔵相をおやりになった。でも、お亡くなりかたがねえ」と氏独特の言い回し。だが、この会話を若者は理解できるだろうかと若者にたしかめた。無理。歴史教科書云々する時間があっても二、二六事件は教えないらしい。
 来年から、バス便を月一回にします。理由は先般本誌に書いたとおり財政上の理由からです。一時は毎週日曜日に上がったものだが、自家用車の発達で乗る方が減ってしまった。
 先日早朝にいつも手伝ってもらう宮崎定さんから「幟竿用に竹をもらってあるので切れたら取りに来てくれ」との電話。我が家に竹は太すぎるとのこと。お昼に軽トラックでとりにいくと「もう少しすると月夜まわりになるので虫が入る」との由。一本の幟竿でもここまで配慮してくれているのかと思った次第。