第201号

観音様の出会い

マザ−テレサの死
バス便の危機 余録 漢文が危ない




観音様の出会い   鴨島町 岸田雄亮

 私の祖母が、両親が中津峰山の信者で私の家には中津峰山の観音様をお祀りしておりました。その関係から、幼いときからわが家の観音様をお詣りしていました。
 十六歳の高校一年生のとき、母親に連れられては生まれて初めて、お山に詣ったのがきっかけとなり現在に至っております。
 その折、学生証入りの定期券を紛失してしまいました。さあたいへんです明日から学校へ通学できません、困ってしまいました。しかし、後日、拾主から連絡をいただき私の手元に返ってまいりました。これも偏に観音様の御利益と思い感謝いたしました。それ以来、中津峰山を信仰し、月参りもさせていただておりました。
 私は今は車でお詣りしますが、若い頃はいつも心に迷いが生じたとき、歩いてお詣りさせていただきました。その数時間の間におかげをいただくのか、迷いは晴れ、確固たる自信を持って決断することができました。
 今日家族一同が幸せに暮らせるのも観音様のご加護のたまものと深甚の感謝いたしております。これからも多くの人々が当山の信仰を深くして、ひろまっていくことを祈念し益々のご隆盛をお祈りします。


マザ−テレサの死

 私にとってはじめての外国がインドであった。それもカルカッタ、何かが腐ったような異様なにおいがする空港について、一日観光、人がわいてでてくるという表現がピッタリ、聞きしに勝る世界有数の浮浪者に驚愕しながら、夜は別天地の英国統治時代のホテルで夕食、ホテルから一歩出ると浮浪者らがうよ。仏跡参拝にパトナに向かう夜汽車に乗るためにハウラ−駅に出発した。日本では見たこともないプラットホームに車が走る大規模な駅である。駅に近づくにつれ、市街電車の安全地帯、駅前広場等々ありとあらゆるところに人が寝ている。我々が歩いているといっせいに起きあがって「バクシイシ−」(おありがとうございますとでも訳すか。普通の市民でもより裕福な我々に手をだしてこういう)と手をだす。カルカッタの全市民は我々を襲ってくるかとも思うほどのエネルギ−に圧倒されながら、やっと上級クラスの待合室(それとて我が地蔵橋駅のほうがきれいだが)にたどりつく、もう外へは行く気がしない。これが私の外国初体験であった。このとき極貧の彼等から逃れようとはするが、旅行会社の添乗員から金品は与えぬようとの注意もあって、彼等を援助しよう、救済しようという気は起こらなかった。宗教家の端くれとして恥ずかしい話である。
 メアリー・テレサ・ボジャジュは違っていた。彼等を救おうというドデカイ願望をおこしたのである。生まれ故郷ユ−ゴスラビアの教区の司祭から、彼が訪れたインド・ベンガル修道会の話を聞き、修道女になってとインドに行くと決心した。そして一生を貧しい人のために捧げた。こういう表現が後述のように私に誤解を与えたのだが。
 曾野綾子さんはマザー・テレサの死の翌日の日付で『新潮45』投稿している。彼女は一九九一年にカルカッタに往き、マザ−・テレサの「死を待つ家」を訪れた。彼女も初めてカルカッタへ行った一九五六年には「道ばたにドンゴロスが落ちているように見えるのが街路に寝ている人たちであった」とその風景には彼女も驚いたらしい。街角に転がっている人々が死に近くなったとき収容する施設が「死を待つ家」であると書いている。
 ベナレスをはじめインドの聖地にはヒンヅー教の「死を待つ家」が多くある。また、最近有名になったサイババも日本人はじめ世界の富裕なる人々からお賽銭をとりあげ、一方では病院をはじめ、救済施設作っている。テレビ報道によればそれは半端なものではない一つの町のようだ。個人的にもインド人の富めるものは毎日貧者に食事を布施している。そうでないと金持ちとか、マハラジャーとはいってくれない。先の「バクシイシ−」に対し、布施するのがインド等々理屈をこねていた。マザー・テレサのノ−ベル賞はキリスト教社会の同族意識の証だろうと等々私はマザー・テレサに共感しなかったのである。
 ところがマザ−・テレサの死をインド政府が国葬にすると聞いて改めて考えなおした。インドというのは曼荼羅の国、多種多様の考え方を包含してしまう国である。それが国をもって遇するとはいかなることかと考えた。キリスト教社会に迎合するのか、はたまた、たくさん救ってもらった方への単なるお礼のつもりかという低俗なことからはじまって考えた。ちょうどキリスト教的表現をするなら「神からの啓示」のごとき文に出会った。それが先述の『新潮45』文である。私は大いに反省した。誤解の要因は一番は私の邪推ではある。つぎには宗教を抜きにして解説した情報しかない我が日本のメディア、学者先生の貧困さゆえにではあるまいか。しかし、そんなものを超越してマザー・テレサはあった。
 「死を待つ家」を見学するのは人間として普通はためらいがあったと曾野さんはいう。だが、そこを案内したシスタ−は「どこでもごらんなさい」といって写真も自由に撮らせた。それを読んで私は一瞬異様に感じたけれども、逆にマザー・テレサを考える端緒となった。曾野さんはこういう趣旨の表現をする。彼女の施設くらいにならば寄付は集まるだろう。だが、病人、ボランティアの経費はまだまだたりない。それには見せなければ世間は動かない。マザー・テレサは世間を動すためなら世間の思惑、常識一切考えない。神の理解さえあればよいとしていた。ノーベル平和賞受賞式の後で通常行われるパ−ティーの中止を要請し、その費用をもらった。その金で二千人にクリスマスのディナーを食べさせた。それでも神の前に己に執着していないかといった内観をもって祈ったと。
 これを私が理解するとこうなる。マザー・テレサは「肝っ玉かあさんであった」故にマザーと呼ばれたのだ。世間が何をいおうといっこうに気にしない。救済のためには何でも利用する。「ノ−ベル賞のパ−ティにくるような着飾った輩とメシなんか一緒に食えるか。それがなんぼのもんじゃ、私は主(あえて神といわない)さえ分かってくれたらそれでいい」という太っ腹のダイナミックな存在であったのだと。日本のキリスト者に一言いわせてもらえば彼等はくそまじめすぎる。それがためにどうしても優等生的表現になる。土着性と世俗ものんでしまうバイタリティが分からない。マザー・テレサはかの淫乱元王女も取り込んしまうほどのスーパーウーマンなのである。しかし、世の俗人と違うところは主の思し召しに世って行動する修道女である。
 彼女の俗人との違いを曾野さんが自身のキリスト教信仰と教養に則り、聖書の言葉と多く引用し、日本語以前の聖書本来の意味を解説しながらマザー・テレサの偉大さを賛美する文に接して目の鱗がとれた思いがした。  また、別の意味において、もしマザー・テレサが日本で活躍していたら、国をもって遇することができたであろうか。防衛問題とともにこの国の欠けた一面ではなかろうか。


バス便の危機

 一年ほど前から参拝バスの運行状況がよろしくありません。この運行は市バスが定める最低価格以下を当山が保証するという約束ではじめています。そのため、三十人が乗ってくれてトントンというところです。代金はだいぶ前から据え置きです。それはタクシーで四、五人が乗る方が安いという計算が成り立つからです。本当にバス事業というのはむずかしい。今後、月一便にさせて頂くかもしれません。


余録

 皆さまのご協力で『朝念暮念』二百号は好評のうちに発刊できました。紙面を借りて、心よりお礼申し上げます。せっかく玉稿を頂きながら掲載できませんでした岸田雄亮さんの体験談を改めて掲載させていただきました。また、佐藤義雄先生からは多くの写真をご提供頂きながら出稿状況から写真が使えなかったことをお詫び申し上げます。本来編集後記でかかるお詫びを申し上げるべきことですが、それとて紙面いっぱいそれができず、今あらためてお詫びさせていただきます。


漢文が危ない

 昔々弘法大師が中国に留学していたとき、恵果和尚の遷化に際し中国人を含む多くの弟子の中から選ばれて師匠の碑文を書いた。中国人より文がうまかったのである。これは特例としても中国との外交文書は漢文であった。かくして漢文は日本の公式文書用に使われてきた。江戸時代に中国人が読んで概ね分かるのは伊藤仁斎だけであったという。中国にあこがれた荻生狙来も実は通じなかったといわれる。これは日本で独自な発達をしていったことを物語る。我々僧侶は原則的に漢文であるが、だんだんか混じりの文体が多くなってきた。日本の古典とも言える漢文である。
 戦前の旧制中学は漢文の時間があり、筆者も高校時代は漢文が週三時間あったように記憶している。現代は古典の時間の一分野になり独自の時間はない。その上、ワープロが発達して漢字を覚えないばかりか、漢字に制限が加わってしまった。これからは漢詩を作って揮毫するという方がいなくなるだろう。
日本では罪人、韓国では英雄の安重根の文と文字を持っている当時の看守の子孫がいる。テレビで見たがすばらしい文と、魂のこもった堂々としてかつ繊細な字であった。あの軸を見たものは彼に共感を得て、単なる罪人とは思いたくなくなる。国を憂えた人であったと認めざるを得まい。百年後の異国人が理解できるのが漢文である。漢字文化圏は現在高度成長が著しい。その国々が理解し合う簡単な方法は漢字による筆談である。今の韓国の教育はハングル中心で漢字を教えていないというのは残念である。
 インド人が英語文化圏に属するので最近世界でもてはやされている。が、こちらは漢字で対抗使用ではないか。漢字文化圏と英語文化圏は人口において概ねかわりはない。漢文は英語を学ぶと同様に世界に羽ばたくのに大切ではあるまいか。但し、漢文と中国語は別のものである。