記念特集 みんなでかざる200号
思いつくまま 如意輪観音様と私

中津峰山の思い出

中津峰山如意輪寺と私
朝念暮念二百号まで クローン羊
祝「朝念暮念」二百号 北海道から中津峰山をしのぶ おもいで
わが句碑建立 月詣り三十年 老僧のこと
曼荼羅霊場と私 妙法蓮華経普門品第二十五(観音経) 阿羅漢会のこと
二十五三昧会について チベット旅行の回想 私と中津峰山
心の道 観音様と私 『朝念募念』二百回について
中津峰さんのこと「母の願い」 観音様に導かれた私 想い出多き方々
兵庫県南部地震

元気な現役の方々
つれづれなるままに



思いつくまま   奉賛会長 武市一夫


 『朝念暮念』が二〇〇号になったこと、およろこび申し上げるとともに、今後さらに発展することを望みます。  奉賛会長をひきうけたとき、私は如意輪寺が信仰の対象のご本尊さんの護持のほか、重要文化財としての如意輪観音像を大切に護持する国家的責任があるということをあらためて知らされた。幸いに完璧に防火設備ができあがり、時々放水演習が呼びものになっている。鐘楼門の解体修理も同趣旨だが、加えて岸田雄亮さんの篤志で「親子の鐘」の実現までみた。  すべての信者の皆さんのご協力の賜であるが、これら善意の結束を永く保つための交信の手段として「朝念暮念」は必要であり、さらに今回のように、信者の皆さんの参加も得て、いわゆる双方向メディアに発展させてはどうかと思う。特に信者さんたちの世代交替にそなえて必要だと思う。  私はこどものとき、バスにも汽車にも酔うからという祖母に連れられて、新蔵町から、お山の本堂まで徒歩で参拝したことを思い出す。 最近、小五、小二、中二というような力のない弱者を惨殺するような青年たちが続出している。おそらく連中は両親、祖母に連れられて神佛に詣ったという体験などないのではないかと思う。  私は中津峰さんが「親子の鐘」にふさわしい「子供づれ参拝」で有名になってほしいと思う。世代間のギャップを埋める一助として有効であるにちがいない。



如意輪観音様と私  佛画家 江本 象岳  
(TOP画面の仏画は、江本師に『朝念暮念200号』のためにお描き頂いたものです。)


 十年一昔といいますが、私が佛画を描き始めて早ふた昔になります。この頃やっと自分でも人様に拝んでもらえる。佛様が描けるようになったと思います。これひとえに如意輪観音様のお陰と思っております。と言いますのは洋画から転向した私はそれこそ試行錯誤の連続でありました。本格的な佛画として初めて絹本に描いたのが如意輪観音様だったからです。  如意輪観音様は普通六臂、すなわち六本の手を持った仏様で表現されます。これを変化観音といいます。他に十一面観音、千手観音、馬頭観音などがそうです。所謂お顔や手がいくつもある観音様のことです。 お顔が一つ、手が二本で表す観音様は聖観音といい、変化の観音の元のお姿です。その観音様の法力を具体的に表現したのが変化観音で、如意輪観音様も六本の手にそれぞれの願いが込められております。  何でも意のままに叶える如意宝珠、こんなすごい珠が家に一つあったらもう万々歳です。しかし、残念ながらそれを持っておられるのは佛様だけです。人間は勝手なものですが、勝手ついでに私たちの悩みや苦しみを観音様に預けてしまいましょう。私達が至心に祈ればきっと観音様は願いを叶えて下さる筈です。なんといっても六道の苦を除き、私達を救うという大誓願を持っておられるのが如意輪観音様です。



中津峰山の思い出     総代 芝原孝昌


 私の中津峰お観音様の思いでは四十年以上昔、地元の宮井小学校の学年最後の遠足に旧道を通っての山登りでした。その頃は山田先生、先代の住職戒本さんもお元気でした。祖父米蔵は、先代住職さんと大変親しくさせていただいていました。そのようなご縁で若き山田戒乘さんが住職に就任された折、同世代(二十六才位)の若さも省みず現在まで総代の末席をつとめております。本年新緑の頃、目出たく次代を担う子息弘乘君も結婚され,二十一世紀にめざし中津峰お観音様の光がますます輝くことを期待したいと思います。 私ども地元の総代はお観音様を中心にして、中津峰山周辺が広く人々の心の憩いの地として発展することを念じているところです。そのため、 1.アクセス道路として、多良良町内の幹線道路、門前道路の改良整備、 2.来春オープンの市立動物園より八多町県道経由婆羅尾峠に至る広域農道整備工事促進に努力致しているところです。  お観音様の御加護で早く工事が無事に完成することを祈念しています。



中津峰山如意輪寺と私   斎藤 義人  


 私の会社は明治五年初代斎藤徳蔵が徳島市大道一丁目にて創業しました。皆様のお引き立により、お陰様で今年百二十五周年を迎えました。私が五代目の重責を負っております。  中津峰山の中興の祖といわれる戒賢和尚は初代の弟さんでした。従って斎藤家は中津峰山とは深いご縁があるわけで、誠に有り難いことだと思っております。  以前はお参りするのに、参道(山道)を歩いて登っていたことを懐かしく思い出します。汗をかきながら、雪を踏みながら、大変なことでした。信心される方々の、また歴代ご住職の往来は、さぞ難儀したことだと思います。今は車でスイスイですから、有り難いことです。  私の子供達が小さい頃には、よくお寺で泊めていただき夏の一日を涼しく一家で楽しんだことを懐かしく思い出します。  深山幽谷の地が徳島市の中にあり、しかも近いところにあることは本当に有り難いことです。私は山歩きが好きですからよく頂上まで登ります。春夏秋冬すばらしく手頃なコースの一つです。  今年五月には、若い御夫婦の結婚の媒酌の栄をいただき恐縮しております。若いお二人が伝統と歴史ある中津峰山如意輪寺の法統を立派に継承し益々信者を増やされる事 を期待しております。



「朝念暮念」二百号まで   住職 山田戒乗


 当山で一年、半年の御祈祷守を毎月お送りするようになったのは私が住職して数年経った頃と思うがはっきりしない。昭和五十四年もおしつまって、服部徹龍さんが「せっかく送るのだから何かを入れたら・・」と。一つの提案を倍増することが得意な私はさっそく機械の購入を考えた。これだけの器具を購入すると「しゃあないなあ」という論法である。徹龍さんは一枚の紙に佛語や標語を入れることだったらしい。が、当方そんなことお構いなしに広報誌へ進めてしまった。 和文タイプにデュプロ印刷機を購入してはじまった。実は私がガリ版をきればできると最悪の覚悟していた。とはいうものの和文タイプに直打ちではうまくいかない。一度紙に打ち出して、宮井小学校へお願い謄写原紙を作ってもらい、当山の印刷機にかけるというやっかいなものであった。鐘楼門落慶法会にはその印刷技術?が功を奏してテキパキことが運んだ。謄写原紙もその頃機械を購入し、印刷機も二代目となった。その頃の多忙さ故に本誌はしばらく休刊やむなきにいたった。 落慶法会後復刊、昭和五十九年頃には徹龍さんがワープロを購入、この方がよいとのことで当山も準備に入った。  当時はワープロ専用機が出始めた時代。それを欲張って信徒管理システムと兼ねたものにと考えた。徳島大学、矢野教授にご指導を仰ぎ、日本システム開発鰍ノ開発を委ね、他に類を見ないものが完成した。いよいよというとき徹龍さんがダウン、再休刊。家内が昔やったことがあるとタイプを引き受けてくれて復刊。再出発のため印刷機も新しい三代目にする。六〇年半ばには私がワープロがかろうじて使えるようになったので休刊だけは免れることになった。だが、当時のワープロは今思えば使えたものではない。そうするうちに画期的なワープロソフトがでた。「一太郎」である。バージョン3を購入。一気に三段組ができるようになって、はさみで切って段組の必要がなくなった。五十四号からである。ワープロソフトの善し悪しは一度打った単語を次にどれだけ覚えているかにある。我々のように特別な用語を使うものは特にである。因みに現在「朝念暮念」に私が使っているのはV6、当山はV8まで使っている。 平成七年念願のコピー感覚で謄写印刷ができる印刷機を購入、現代最高の機能を用いると画面はよほど見やすくなった。また、弘乗が帰ってきて、私がワープロ入力したものを「大地U」とソフトをつかって版下まで作ってしまうことが可能になり現在の紙面になった。この間、印刷機は四代目、コンピュターは五代目、プリンター五代目と代替わりした。  ソフト面では常に読みやすい文章と思っているものの以降に進歩しないのでいやになる。



クローン羊 坂口光子


未来へと進む科学の寒ざむし

クローン羊のつぶらなる瞳

人間のコピー現はるSFの世界まさしくうつつなるらむ

母と言う言葉むなしく消ゆるかも人工による命にあらば

とどまるも戻るもならじ進みゆく 創造と言うや破壊と言うや

人間がにんげん作る冒涜に青き地球のいつまでつづく



祝「朝念暮念」二百号 金龍寺 服部徹龍


 私はひげのてつりゅうです。まずは二百号おめでとうございます。この原稿依頼は岡山に電話が転送されてうけました。その時たまたま私の恩師の突然の遷化の報に彼の地に行っておりました。 ご縁の不思議というか、私が中津峰山でお世話なっているとき、このミニコミ誌『朝念募念』第一号を発刊しました。当時は手動のタイプライターで打っていました。その頃、最初に書いた恩師の寺にも頻繁に行き来をし、僧侶としての教えを請うていたときでもあったのです。その両方が同時代であったんだなあと思いながら、恩師を拝ませていただいたわけです。私事になりますが、今日私がまがりなりにも 坊さんとしてやっていけるのも中津峰山と岡山の恩師のおかげだと言っても過言ではありません。 この誌を通してますますしあわせを感じる人が増えますことをお祈りします。もちろん私は今一番しあわせです。



北海道から中津峰山をしのぶ   元院代寺沢尭運


 私こと故あって家内ともども奈良を引き払ってこの地に移住、昨年十一月八日のことですから、まだ十ヶ月足らずしか経っていませんが、すっかりここの音楽一家の中に溶けこんで楽しく暮らしています。  じつはそのうち一家五人と同好の音楽仲間六人と併せて十一人で一泊旅行して帰ったところに「朝念暮念」のお便りが届いていたのでした。  この旅行で感じましたことは、ここでは自然はまことに自然太古のままに蒼然とあるようで、四国・近畿で暮らしてきた目から眺めますと、特に宗教や政治のいろが、全然みられないという思いがいたしました。  コースは札幌から一路南下して、支笏洞爺国立公園の森林を突き通り恵庭岳(一、三二〇米)の裾を回り、支笏湖を左に見ながら、ここから右折して、ニセコ積丹小樽海岸国定公園の湯本温泉に夕方着泊。翌朝発、やや北上して岩内町に至り、ここから積丹半島岸沿いにずっと北上。やがて、神威岬の突端に立って、はるかに青黒い日本海を一望。それから半島を右回りに廻って小樽市へ。続いて二百万都市の札幌市に帰着。およそ八百`の旅でした。途中見たものは森林に覆われたなだらかな山。山の上のひろい空、奇岩の立つ海岸、小さな町とも村ともいえない家がぼつぼつ。ただ道路は、どこまでも立派で行き交う車はスイスイでした。  これが近畿であったらどうでしょう。まして奈良だったら。山にも野にも街にも、大社あり、陵あり、宮跡ありと、日本の古代の宗教や政治の証が現代のこの時空に立ちはだかっているのです。  そう思うと、阿波三峰の一つとして、小松島港を眼下にして建つ中津峰山如意輪寺が誠に神々しく「また懐かしく」しのばれてくるのでした。  どうぞ「朝念暮念」誌も二百号のあと三百号・五百とますますお栄えあらんことを切に切にお祈り申し上げる次第です。



おもいで 勝浦町 椋井 輝子


 なき母が「中津峰の観音さんにお詣りすれば運が向いてくる」と一緒にお山に登って以来、ご縁をいただき早二十年の歳月が経ちました。それ以来、月参りというより、三日にあげずといったお詣りです。いつもお山で大勢の人と出会います。その時々に心が和むひとときが忘れられません。  縁あって本尊様のお花を生けさせていただくようになりました。ある時、お花を用意しておりますと上品なご老人が歩いて登って来られました。お供のお花をしばらく眺めて、「お観音さまが生けられたような美し花、優しい花ですね。今日お詣りできたことがとても幸せです」と声をかけて下さいました。聞けばその方は今日、お山にお詣りしょうか、明日にしょうかと迷ったそうです。逆に私は物静かなご老人のお姿がお観音様のように映り、お観音さまからお声をかけていただいたように思って、生きている喜びを感じ、身の底から活力が溢れてきました。  人生、突然なにがおこるか分かりません。平成七年の中津峰さんの初会式の初日の正月十七日阪神・淡路大震災がおこりました。神戸に住む娘夫婦と孫の安否が気遣われ、お観音様に一心にお祈りしました。おかげで無事との知らせに安堵しつつも、多くの被災された方々のことを思い心が痛んで、その夜は眠れませんでした。翌十八日未明に起き出し「親子の鐘」を突き、感謝と被災者の無事を祈って一段一段登っていきました。お詣りが終わる頃、十八日の朝日が登ってきて身体一杯に充実感を味わいました。明日も来られますようにと祈り日参させていただきます。   合掌。       



鈴木志賀恵


中津峰朝夕拝玉米寿かな

つつがなく米寿祝える有り難さ

長生きで嬉し悲しが身にしみて

何事も佛の御心と感謝する

地蔵に頭巾召し替え入りお盆

病伏す息子とつきたや親子鐘

徳がとう合掌で帰る親子かな
    



橋本 育


毎月にお参り出来て森林浴

有り難い困ったときも無事に済み

お陰です皆健康幸福に



わが句碑建立 万福寺 福島誠浄 (俳号 せいぎ)  


銅像や句碑を建てたがるのは老化のあらわれであると、日ごろ人前で講演している私が句碑を建てることになった。 十代のころから俳句を志していて、生涯一句を残すつもりでがんばっているが、未だに名句は生まれない。ところが、昨年大川原高原へ行ったときに、ふと口について出た句が、「阿波三峰はるかに見えて牧閉ざす」という秋の句であった。幸い、この句は全国誌の選にも入ったが、そのときは句碑などとは思ってもみなかった。  あるとき、旧知の大川原高原ふるさと村、社長の玉井武二氏に句の話をしたところ、是非句碑にということになった。生涯一句の句にしてはお粗末な句であることは私自身よく知っている。しいて評価するならば、「阿波三峰」に新しみがあるくらいである。そこで、建立に際しては「牧閉ざす」を「牧涼し」に改作した。その方が句に広がりができると思ったからである。  ご承知の通り、阿波三峰はとは、中津峰、津の峰、日の峰の三霊峰の総称である。中でも中津峰は如意輪寺のことであり、私の句も中津峰を胸中において詠んだものである。  句碑建立地は、はるかに中津峰が見える絶景場所にある。これも玉井社長のご厚意によって決定したものである。句碑の除幕式は九月十四日、除幕の導師はわが畏友中津峰山如意輪寺住職山田戒乗僧正にお願いした。  句碑はありきたりの石ではなくて、デザインは彫刻家として著名な居上真人氏の手になるものである。句以外はすべて一流、しかも仏縁によって完成のはこびとなった。  ただただこの縁(えにし)をありがたいと感謝するばかりである。標高千米の大川原高原に我が分身ができた喜びをかみしめている。



月詣り三十年 福田 伝  


 如意輪寺に初めて参拝したのは、終戦をむかえました国民学校一年生のとき祖母に手を引かれて、佐那河内村の園瀬川の丸木橋を渡り、通称鋏谷を通り峠を越えて大久保、八多町を経て現在の登山道を登りお寺に至る道程でありました。約七キロを四時間程かけて、とぼとぼ歩いたのが懐かしく鮮明に蘇ってきます。それも月末の三十日か三十一日に行き一晩泊めてもらいました。善男善女のお年寄りが多かったように思います。楽しそうに四方山話をしていたのを子供の私は静かに聞いておりました。翌日早く起きて本堂、大師堂などをお詣りして下山しました。前日のお詣りと月初めの一日で年間六回これを繰り返すと月詣りができるのです。祖母は口癖のように「中津峰の観音さんは、何でもお願いしたら訊いてくれるけんな」と言っていました。わたしも祖母と並んで小さな手を合掌して、ご本尊様にお願いしました。祖母が年老いてお詣りができなくなると母が祖母に代わって月参りをしないまでも時々、参拝するようになりました。そのうちドライブウェイもでき、母は兄や私の車に乗って行くようになりました。信心深かった祖母も八十一歳で他界しました。また、父の農業を助けよく働き八人(六男二女)の子供を育てた母も中風で入院し、数年間病床にありました。その母を見舞った際に、お観音さんのお守りを「ありがたいけんな」と言って、手渡すとにっこりうなずいてくれました。その母も先年亡くなり、親孝行も出来ぬうちに両親は黄泉の国へと旅立っていきました。  私もお陰様で、人並みに成人し、親となり忙しく教職の道を歩んでいたある時、ふと、観音様を思いだし家内とともに参拝しました。その日は秋晴れで、コバルト色の空はどこまでも清く澄み渡り、紅葉は真っ赤に燃え盛り、紀伊水道にはヨットの白い帆が浮かんでいました。久しぶりにお会いしたご住職山田戒乘師も笑顔で対応してくださり、心あらわれるひとときを過ごすことができました。この日を契機として中津峰山如意輪寺の月詣りが始まったのであります。それ以来三十年、夫婦で元気に月参りをさせていただいております。参道の植物・動物相の四季のうつろいを肌で感じ感動しております。春の新緑、山桜、夏のホトトギス、秋の萩、女郎花、冬の木枯らしの声、うっすらと積もった雪など参拝のたびに味わい深いものがあります。  忙しくて月末にお詣りができていないと、なんだか宿題が残っているようで気になります。今日まで元気に生活できているのは、御大師様、観音様の庇護の賜ものと深く感謝しております。今後とも生命あるかぎりお山に登り森林浴を行い、心身をリフレッシュしつつがんばってまいりたいと思います。    合掌



老僧のこと  安廣 周治  


 先代の御住職、戒本様はたいへん気さくで機知にに富んだ方でした。三月十日の東京大空襲で焼け出されて、我が家は終戦前後の一時期、中津峰山麓の父の実家にお世話になっていました。  その頃の秋の夕暮れのことです。小松島から帰り道らしい御坊にお会いして、「どちらへ?」とお尋ねしますと、「いや!玄関の戸が外れてな、台風が来るとあかんので新の戸を嵌めに行つとった。」「???・・・。」  何分ご住職のお話は額面通りに受け取るわけにはまいりません。はて、なんのことだろうと戸惑っておりますと口を開けられて新しい歯をさしておられます。抜けた歯を入れたお帰りでした。  最近の戒乘ご住職はその頃の戒本様にそっくりになってこられたように思います。益々お元気で私達をお導きください。



曼荼羅霊場と私  新四国曼荼羅霊場会長 伊予稲荷神社宮司 星野萬四郎  


四国四県にまたがる山あり谷あり、美しい大自然の中に祖先が残してくれた、不変の信仰を求め、清らかでゆったりとした心境でマンダラの神佛を尋ね心の按所と安らぎを感じながらのお詣りできるこの霊場のとりこになりました。私は二十数名の同士と共に平成二年から団参を始め現在八回目の巡拝を終わろうとしています。一年間で満願予定にして毎月一回のお詣りを続行中であります。このお詣りの団体を結成した当時は小型バス一台ボンゴ一台三十五、六名で続いておりました。一回の満願で休む人も出来続行があやしまれたじきもありましたが霊場社寺の皆さまの暖かい受け入れと応待に次々に新しい人が加わり案ずることなく続いております。  お詣りを戴く人達の中にも心のふれ合い和が生まれて来ました。本来人は人としての本性を整えることによって他の動植物との違いを明確にすることが出来ます。何事も私達が本来もっている人としての心で物事に当たることが神佛の教えであり道徳のもとであると思います。ともすると人間はいやなこと苦しいこと嫌いなことは避けて通りたい風潮がこの頃です。  気高く美しい人とは今を全力で生きることであって前生や死後のことは神佛の御教に従い素直な気持ちで今の命が尊く大切であることをわきまえて神々の創造物である宇宙の中の生命活動は神聖で偉大な神佛の恩恵であり祖先の威徳を感謝することが報徳であり信仰の始まりと思います。私達は宗教とか信仰をどのようにとらえているか、素朴な形かもしれないけれど、地域社会また共同体の中で共通の心をもつ者同志が集まったお祭とする。ふるさと山河を思いめぐらせとき、幼心の中に鎮守の森のお祭、寺院の縁日、その季節の身近なお祭は祖先から穣られ受け継いで来た神佛の存在をはっきりと認識させてくれます。今の世代の多くの人々に再認を呼びかけ、次の世代へきちんと伝えて生きたいと思います。



妙法蓮華経普門品第二十五(観音経)     助石屋子孫 京都 石川種男


 私は写真を撮って歩くのが好きで、あちら、こちらと撮影に行きます。しかし夏は思った被写体がないので好きな蓮の花ばかりを写しています。  ある日、朝早くから花を写していると、お寺に拝観に来た七、八人のご婦人達が花を見て「まあーきれいや」「仏様がお乗りになるはずや・・」と、心よりでた本当の声を聞いた思いでした。人を感動させる本当の写真を作らなければと思いました。  最近信じられない事件が起こります。本当にやりきれない気分になります。どのような理由があるのか分からない。しかし、泥水のなかでも美しく花開き、実を結ぶハスの花のように見習いたいものだと思います。  美しい花弁は諸法私たちの舌や耳目、蓮台に乗っておられる観音様にいつまでも幸せでありますように朝に念じ暮れに念じています。 具一切功徳 慈眼視衆生福聚海無量 是故應頂礼  先代、石川照吉の遺言は一言「ご先祖様を大切にすること」でありました。常々大切にと思っております。



阿羅漢会のこと   板東義治


 アッ!と思った瞬間、手に持った洋傘は強い突風に吹き上げられてしまった。急いで自転車を降り、傘を直そうとしたが、逆三角錐形になって曲がった骨はもはや使い物にはならない。幸い道の向側に雨合羽の店を見つけた。早速飛び込んで雨合羽を買い着用して再び強風の中を自転車を漕ぎ、やっと約束の集合時間に間に合うことができた。  「こんにちは!」と駆け込んだ大道四丁目の仁木正先生の家には、阿羅漢会(戒本大僧正を囲む会)の面々がもう揃っていた。「風雨がこれ以上強くならんうちに、お山に向かって直ちに出発しましょう。」仁木先生の声に一斉に風雨の中、再び全員自転車に乗り、中津峰山如意輪寺に向けペダルを踏んだ。二軒屋町から地蔵橋駅前を走り、丈六の土手を通り過ぎ多家良町に入り、ようやく山麓に到着。自転車を茶店に預けて、ここからは徒歩で杖もつかず参道を登るのだが、風雨の強いこの日も一人の遅れもなく一団となって如意輪寺の方丈の玄関に着いた。時は昭和三十年の夏のことである。  「阿羅漢会只今到着!」仁木先生の大音声に。「おう!」とのたまう声とともに破顔大笑の戒本大僧正が両手を挙げてお迎えくださる。私どもは雨の山道の苦難も忘れ一斉に笑顔とともに頭を下げ、先ずは仁木先生がご挨拶を言上するのであった。その後、待ちかねたように方丈の一室に通され、大僧正を囲んでの歓談に夜の更けるのを忘れ下界の日頃の苦労や疲れも吹き飛び仙境に遊ぶ思いを味わうのであった。  嵐の中も厭わずに、御山に参上したのは、先代の戒本大僧正の広大無辺な何事も変わらぬ大きなお心、そして若僧の私(当時三十五歳)に対し長年の親友である仁木先生と同じように分け隔て無く接してくださる慈悲あふれるお心にふれ無情の喜びを感じていたからなのであろうか。私が初めて大僧正にお会いしたのは、仁木先生にお供して桜花爛漫のお山へお参りした唱和三十年春のことであった。以来ご遷化されるまでの長い年月の間、四季折々に度々参上し、その都度身に余る知遇を頂いた。その節の深いご厚情に心から感謝するとともに、今後『朝念暮念』が益々発展されるようご期待申し上げる次第である。  



二十五三昧会について  山田 弘乘


  二十五三昧会は、平安後期頃、比叡山で恵心僧都源信を中心に形成された集団である。この集団の特徴は、平安中期頃に民衆に広く信仰された往生思想や念仏修行を取り入れ、死という問題に対して積極的に取り組むことにあった。後に源信らの二十五三昧会は、山城国や高野山など日本各地に分派し、その地方の風習や民間信仰と融合し、様々な発展をみせている。また、後世に発展した法然や親鸞の浄土教にも、少なからず影響を与えたといっても過言ではない。  彼らが、死の問題に取り組むうえで必要としたものは、  1、阿弥陀如来を信仰の対象とすること。  2、安心して死ねる環境の維持、運営。  3、法会や葬儀追善供養を行うこと。  4、亡くなった結衆の臨終の様子の記録。 であった。  まず、彼らは阿弥陀仏を信仰の対象とすることで、阿弥陀仏の浄土(極楽)への往生を、死後の目的としたのである。その上で、彼らは、この目的を果たすための環境(安心して死ねる環境)を作り出した。  この環境の中で、結衆(メンバー)間の相互看護、月々の念仏法会(この中には、結衆質の向上を目的とした講演会的要素も含まれた)、当山でも行われている土砂加持法会による追善供養、華台廟または安養廟と呼ばれる集団墓地への埋葬等を行っている。このよ うな行為が結衆の中から先に亡くなって極楽往生を果たした仲間への追悼と、死んでゆく仲間から死への不安を取り除くことを目的としていることは明確である。しかし、それ以上に結衆の「自分の死」への恐怖を取り除く役目を果たしていると言って良いだろう。  また、彼らにとっての来世は、違う次元の世界ではなく、現世とつながっている別の国のような存在であった。先述の臨終の様子の記録として、『楞厳院過去帳』が残されている。この記録もまた、生きている結衆の恐怖を取り除くために役立っている。この過去帳の中には彼らの夢の中に、故人がまだ生きているかのように出現し往生を助けたという記述が多数みられる。  つまり、死後の往生を願う病人とそれを看護し供養し死亡した結衆の引接を願う看護人、夢に出現し往生したことを示し、後に続く結衆を引接することを願う往生人が次元や空間を越えた信頼関係を築いたのである。  『楞厳院過去帳』には、故人である源信が、知人の夢に現れ、   なお、難なり。なお、難なり。おおよそ   極楽に生ずること極難のことなり。 と語ったと書かれている。  往生することが至難の業であったからこそ、二十五三昧会は、結衆という運命共同体を結成したのである。そこで彼らは、結衆の一人に臨終時に孤独を味わせるのではなく、彼の臨終時を結衆全員が臨終のときとして、ともに手をとりあって来るべき死をむかえようとしたのである。



チベット旅行の回想 藍住町 矢部弘子


 チベットの旅十日間の内の三日間は、ギャンツエからシガツエへチベット特有の風景の中をバスは走る。山は氷河の名残りなどを見せて様ざまな容姿で迫り、大河は岩を噛砕き激流となり、又、滔とうと岸辺には柳が生い茂り、その木陰では洗濯や団らんする村人の姿が見え、平野は菜の花が黄色の絨毯を敷きつめ、麦の緑や、そばの花(なんとピンクです)が色どりを添えて、広大で美しくのどかな風景に疲れも軽くなる。そんな中をこの日最後の巡拝のシャル寺へと急ぐ。  突然悪路に入りバスは動けない。雨期に道は流されて川原となっていた。ガイドが土木作業中の汚いトラックをチャーターして来た。全員乗り換えて進む。車は激しく振動して川原を突っ走った往復した。ここで予定外の時間を費やしギャンチェのホテル着は夜九時頃となった。  疲れ切ってバスを降りた。ところが二歩目の足が重い。酸素不足で前進が重い。  ホテルのロビーで腰掛けた。先着の人達も高山病の頭痛や吐き気で苦しそうだ。  そんなとき「部屋のキーを取りに来て」の呼び声に私はサーと立ってしまった。二、三歩進んで急に目の前が真暗になり倒れてしまった。素園さんが来て頭や手の平のツボを押してくれた。すごい痛みを感じた時、私は大きく息をすることができた。不注意から酸素不足をおこしたのであった。後は部屋へ行くのに学生に助けられての行動にとなった。  リーダーの山田住職ご夫妻が心配して、部屋まで夕食を誘いに来て下さった。食欲のない私のために奥様は疲れもいとわず果物を持ってきて下さった。そのお姿が観音様に見え有り難く感謝の気持ちで一杯であった。  実り多い旅であった。拙い腕で撮影した写真が初めて応募した県展、ほかに入賞できたのも観音様のご加護と信じ有り難く心から感謝申し上げている毎日である。



私と中津峰山 四宮 良実  


私が初めて中津峰山へ来たのは小学生の頃、祖母や母に連れられての事だった様に思います。  私の母方の祖母は心優しく信心深い人だったので中津峰山には、昔からよくお参りに行ったようでした。私や妹にもお守りを授かってきてくれたりいろいろ世話になったので、私の中では、祖母=中津峰の観音様のイメージが今でもあります。そのご縁もあって何かと訪れる機会が多くなりました。 中学校の時に所属していたオーケストラ部の夏の合宿も毎年、中津峰山で行われていました。夜、住職さんがお話をしてくださった事もあったし、毎年恒例だった肝だめし(晩に本堂まで一周する)やキャンプファイヤーも忘れられない楽しかった思いでの一つです。  いろんな思いでのあるところですが、中津峰山の良さというのはいつ訪れても四季の移り変わりや自然を感じる事ができるところではないでしょうか?春の梅や桜、夏のあじさい、秋の紅葉など一年中、私たちの目を楽しませてくれます。  これからも中津峰山如意輪寺の益々のご発展をお祈り致します。



心の道 佐那河内村東條行裕


 中津峰さんの旧道十八丁は遠い思いでの心の道である。祖父から父、父から私へと物心のつく前からお目出度い時困った時など折にふれお参りに登り下りして来た道だ。  終戦は、小学校四年生、十歳の時であった。いつもの遊び仲間と川へ泳ぎに行く途中一人の家で玉音放送を聞いた。子供心にも世の中がひっくり返る思いがした。戦争、国と国が全知、全能、命をかけて戦うのだからこれ以上重大なことはない。軍事色が体に染みついたので全てを忘れることもできない。  戦後の混乱期には各地から不都合な話が多く聞えてきたが、田舎の農家育ちで貧しいけれども食べるものと寝る家があったので悲惨な思いはない。私は元気一杯大勢の仲間と野球に夢中になっていた、そのうち膝に化膿を持ったまま激しい運動を続けたのが原因で急性腎炎(ネフローゼ)になってしまったのは中学二年の六月末であった。私は人生の前々半期において大きい痛手を負ってしまった。  「ふと見れば柱に悲しき野球帽」  この句を見た父は私を徳大病院につれて行ってくれた。祖父は水爪糖を求めてくれた。母は「まんじゅしゃげ」の根をするおろして足の裏にはってくれた。祖母はあらゆる信仰を信心込めて祈ってくれた。山西さんという八十才の老女が病床で身体に手を当てて祈ってくれたのはこの時である。四ヶ月の自宅療養の後私の病気は治った。  兄と私と次の弟の三人で中津峰さんへお礼のお参りをした。地蔵橋の駅から徒歩で丈六、宮井を経て旧道十八丁を休み休み登った。温州みかんは当時めずらしかった。果汁の甘みがのどをうるおし、腹におさまると元気がでてきた。私は体力を回復していった。  爾来、教職三十八年を含めて五十年息災無事に過ごして来られたことに感謝している。お正月に家族揃ってお参りしました。孫は三才多い幸を祈っております。  



久米美恵子


それぞれに書を読む夜や虫しぐれ

寝そべりて母と無言の夜の秋

花の旅ひとひらの紅つれて来し



観音さまと私    醍醐寺 大川戒博  


昭和四十五年頃、私は仕事で山陽新幹線のトンネル工事現場にいました。左指四本不能となる大怪我をしたとき、指だけの災難でほっとすると観音様のお助けだとつくづく身に感じました。しかし、般若心経も知らない自分を助けて下さった観音様を感謝しました。 T大学のM教授は「この指は使いものにならない。後五年治療してこい。肉が指についたらそれでよし」と申されました。 そんななか、中津峰山如意輪寺に詣り、和尚に御祈祷をお願いしました。 私は祈る心に花開くと思いながらも心経をおぼえる心のゆとりがありませんでした。指の治療は毎日十五分間水とお湯につけるだけの治療でした。六ヶ月ぐらいして指に肉がつきはじめ、爪が伸びだしました。病院側では爪が伸びだしたとき「ヤッタ」の一言。そのうち指もだんだん使えるようになってきました。五年後になって、正常になった私の指とカルテとを見たS教授は「ウンヨシ」一言。私の必死になって観音様を祈ったことなど通じようもありません。 昭和六十三年十一月二十三日、初めて柴燈大護摩の火渡りをさせていただきました。やっとものになっていた般若心経も皆さんと一緒に唱えさせていただきました。家内安全、厄除招福を祈願して火の上を渡らせていただき、五本の指を見ながら幸せをかみしめました。それから読経を学びに休みのすべてを中津峰山に通いました。五年ほどたって平成三年三月七日和尚様の門弟として得度式をしていただきました。私の定年退職の翌日でした名前は一字和尚からいただき、俗名の博とあわせて戒博としていただきました。翌月から高野山に登り、真言宗の僧侶になるにはさけて通れない「加行」をすませ、お山の和尚のもとでで修行を続けました。平成四年やっと僧侶としての資格を取得することができました。はじめて般若心経を習ってより、かれこれ十年がたっておりました。浅学非才な私をご指導いただけるのも観音様、師匠和尚様ののお導きによるものと感謝し、毎日清浄心で、ありがたい、もつたいない、うれしいと朝夕に醍醐寺の本尊様、中津峰山の観音様と念ずる毎日です。



『朝念募念』二百回について   森満智子 


 初回か二回目かであったかと思いますが、主人とお参りに行ったとき、ご住職が「こんどこんなの発行することにしたんじゃ、信者の投稿ものせて」とおっしゃいました。  若い頃ほんの僅か、同人誌に関わったことがあったので「それは原稿を集めるのが難しいですよ。三号雑誌と云われるように四号目からは自分で書かないと続かないのと違いますか」と臆面もなく言てしまいました。  それ以来毎月送って下さる記事を読んではご住職様の当初のお考えとは違ったかもしれないが、延々二百回まで続いたことにいつも私は恥じ入っております。ご住職の時事に関するご意見、ご感想を拝読するのを楽しみにしております。最近の「何でもありのチベット行」など一冊の本にして出されても良いのではないでしょうか。とにかく私と長いご縁を戴いて感謝しております。  私が初めてお山に登ったには戦後まもなくで胸突き八丁を喘ぎながら登っているのに、小学生の女の子と男の子が駆け登っていったのに驚きました。その男の子が現在のご住職だったそうです。それから幾星霜、高齢出産の息子は虚弱体質で風邪を引いては病院に駆け込む状態だったので祈願に参りました。  家人に内緒で登っていたのが、主人の車になり、何を信仰しても長続きできないと嘆いていた姑を同道し、五十歳を過ぎた主人が太って重い姑を「親子の鐘」まで背負って登りました。これ以上断念しようと話し合っていると、ご住職の奥様がでてきてお尋ね下さいました。「せっかくおいでになったのだから私家だけが通る道があるので車で送ってあげます」と仰って本堂前まで送ってくださいました。それからご住職が姑を背負ってご宝前につれていって下さったのです。  姑は「ご住職が背負ってご本尊様にお参りさせて下さったのは私以外ないだろう」と喜んでおりました。姑は死後大師堂におまつり頂き本当の仏縁をえたのだと私は心より喜んでおります。  それから幾年か経て、主人もなくなり、交通の不便もあり今はお山に登るのも疎遠になりまして毎晩お山に向かって一日の感謝の祈りをしております。



四宮アサ子


母の日を待たずに天寿を全うす

初盆や戦火をくぐりし写真出て

会釈して母に似し人盆の寺

参磴に香ただよひて蝉しぐれ

父母と童女つなぎて流燈す



中津峰さんのこと「母の願い」  横浜 西井千鶴子  


まだ年老いた母が健在ですのにやっと七十になった兄はベッドの上で意識がなく、ただ大きな目を見開いているばかりでした。母はその細くなった白い手を包み込むように兄に話しかけるのでした。「中津峰山の観音様がお守り下さるから元気を出してね。兵隊に行ったとき助けて下さったのにお礼参りしなくて申し訳なくて。でも何時もその事忘れたことはないのヨ。朝晩お経をあげるときお詫びしているから分かって下さると思うの」  中津峰山にお詣りした話は昔から聞いてはいましたがこんな思いこんでいるとは知りませんでした。私達が父の転勤で徳島に行ったのは昭和十八年の夏でした。戦争も激しくなった十九年にはその頃学生だった兄にも召集令状が来ました。先発隊の方々はお気の毒に輸送船が石垣島のちかくで撃沈されて、帰らぬ人となりました。もう船もなく兄は北海道に入隊しました。どんなにか息子の無事をいのったことか、今親になって私にも分かるように思えます。母は知り合いの野田様に連れていっていただいて、中津峰山様をお祈りしたそうです。そして二十年の終戦を迎えたのです。  多くの方が亡くなったのに息子の無事を喜ぶ母をお許し下さい。その後、転勤で四国を離れ芦屋から東京へと住まいを変えました。食べるのがやっとでお礼詣りをする余裕もないままに年を重ねたようです。でも母は決して忘れていた分けではありません。私達が起きる前に板橋から浅草の観音様によくお詣りしていました。今から思えばきっとお許しをお願いしていたのでしょう。  あまり何度も兄に言っているので「私が代わりにお詣りするから安心してネ」と約束をしました。が、母はただ中津峰山様とだけしか覚えていませんでした。やっと中津峰山様を捜しあて予定をたてたのに兄は待ってくれませんでした。せめて生きている間にお詣りできていたらどんなに良かったのにと悔やまれます。  兄を見おくって五月末にやっとお詣りさせていただきました。母は下駄をはいてあの参道を登ったのでしょう。一心に息子の無事を祈ってのでしょう。今はタクシーで楽々とお詣りしてしまったのですが、母の慈しい心を改めて感謝しています。ご住職様に丁寧にお経をあげていただいて色々お話をうかがうことができて有り難く感謝したいます。兄に報告ができなかったのは残念ですがきっと見ていてくれると思います。  この度の参詣は古い友人の助けによるものです。皆さまに助けられてやっと母の願いを叶えることができました。母は今年、満九十三歳で悲しみをも乗り越え細々乍ら佛様と一緒に一人暮らしています。有り難うございました。 合掌 平成九年六月



濱田 光子


夏木立父かと見えて振り仰ぐ

観世音慈愛のそばに逝きし父

父母の踏み越え来る現し世は(明治・大正・昭和・平成)

中津の峰に愛求めつ人の世の尊きえにし授け給ふ菩薩のそばに安じて居り



観音様に導かれた私  石井町 中村初枝


中津峰山の観音さまにご縁をいただいて、六十年の歳月が流れました。  私は四歳のとき、母は病を得て他界し、その一ヶ月後に妹も母の後を追うように病死しました。家族は父と兄及び中風で右半身不随の障害をもつ祖母との四人暮らしとなりました。  このような逆境のなかで、父はいつもやさしく身体の不自由な祖母に精一杯孝養を尽くしながら私たち兄弟を育ててくれました。  父は多忙な生活に追われるなかで、春秋のお彼岸やお盆、観音様の御開帳のご縁日には都合をつけて私たち兄弟を観音様参りに連れて行ってくれました。  汽車で地蔵橋駅を下車、またはバスを利用するなどして観音様にお参りできることが、その当時として大きな楽しみでありました。今の「親子の鐘」の山門をくぐると一目散に石段を駆け上がった様子が今でもはっきり目に浮かんできます。  私たち兄弟は観音様参りを通じて忍耐強さが養われ、家族の絆が一段と強くなったと思います。  そして、この山道を歩きながら、父が話してくれた言葉が私の生涯の心の糧となって、今も心の中で生き続けています。 「他人が持っているものを欲しがらないこと」「人間心が一番大切。豊かな心が豊かな人生を築く」 「これからの時代は女性も自立できなければならない」など折にふれ話してくれました。  高校へ入学したとき、観音様へ月参りすることを決意し、無事に三年間続けられました。高校卒業後、公務員として四十年間勤務させて頂き無事に退職することができました。 現在なお応分の仕事に従事しながら元気で暮らしており、夫とともに孫娘二人を連れて月参りを心掛けております。観音様のご慈悲とお導きよって生かされ、感謝の毎日です。                                   合掌



以西 久代 


慈母観音仰ぐ青空新樹風 護摩堂の香のけむりや山深し

手水舎の竜口垂るる氷柱かな

朴の花咲きしと寺の掲示板

朴咲けり寺領に匂ひこもりゐて

朴落葉堂縁にあり濡れてをり

初蝉や観世音寺はすぐそこに

受戒終へ仰ぐ青空若楓

青嵐受戒を終へて山くだる

裏返り波打つ如し朴落葉



想い出多き方々   山田戒乘


久次米秀子さん 私が住職した頃、毎日のようにお詣りされていた。千回の参詣を目指し 一年百回と決めてのお詣りである。正月の頃は三六〇分の百だが、ある年師走になったというのに三十回近く残っているという。毎日のお詣りである。寒いある日バスに乗ったら財布を忘れたことを思い出した。当時はワンマンバスも老人パスもない時代だから、車掌さんが明日で結構ですと本堂で曰く「私は顔が利くでしょ」とご主人はお医者さん趣味は外国語七ヶ国語を勉強したとか。とうとう趣味がこうじて外国船の船医になった。つく港港で外国語が使え楽しかったらしい。 武市篤治さん この方も子供の頃からのおつきあいであった。先代のときすでに御寄進いただいた寄付板はあるので二十代からのお詣りではなかっただろうか。神山から徳島に用事ができたらまず観音様に詣ってから用事をしていたようだ。近年はその傾向が益々強く平均一週間に一回ぐらいはお詣りになった。病気で入院中も病院を抜け出した詣ったのではあるましいか。 三好キヨノさん 私が物心ついたらグループで月参りしていた。私が小学校から高校にかけては歩いてのお詣りである。しばらくを経て住職したときはもうタクシーであった。最盛期は三台ぐらいに分乗して登ってくる。第一駐車場から歩いていたのが第三へしかる後、本堂までとなったが人数は最近まで変わらなかった。一番長く続いたグループだろう。 青悦ミツさん 本誌に何回か、特に意識がなくなる直前にお世話になった方のことを書いて投稿いただいた方。最盛期はタクシー五台ぐらいで小松島の老人グループを束ねてのお詣り、家内の作る五目寿司がおいしいと喜び、家内もおいしいと言ったくれるとうでによりかけて作っていた。鐘楼門の落慶にはみんなでお餅の袋詰めの奉仕等々お詣り毎になにか手に合うものをご奉仕願った。ミツさんの入院後、跡継ぎができ、現在若いHさんがお世話して毎月元気にお詣りが続いている。  四宮トミエさん このグループも私が物心がついたら月参りをされていた。お年寄りで一番最初にくるまで月参りされたグループではあるまいか。広い林道がまだないころ、十丁目上の墓地の横から裏道を回って本堂に達する道があった。それを当時乗用車を持っていたHさんが第三日曜の朝早く乗せてくる。そして必ずといっていいほど本堂から大声で起こされる。急いで駆け上がって本堂を開けるといったことが十年近く続いただろうか。 西田節子さん このグループも一時は三、四台の車だった。 なかなか粋なおねえさん(昔)方が多く、古くは杉茶屋でいっぱいやって、三味線引いて楽しく過ごすのを恒例としていた。西田さんは私の母と子供の頃から昵懇で親子のようなつきあいであった。 近藤冨貴子さん いつも友人と二人でお詣りされていた。静かにお詣りなりしとやかにご挨拶いただく、ご主人とお詣りされるようになった。徳島市の教育長をされた教育界のベテランの近藤先生に私の戦後教育の疑問の部分、日本人が食うや食わずのとき、義務教育を九年に延ばし、どのようにして、新制中学を作っていったかをお聞きした。「次にお詣りするとき本誌への原稿を持参する」と快くお引き受け頂いたのに交通事故でこの世を去られた。それからお詣りを続けられた。  このほかにも、お名前が掲載されていない方々が、数多くいらっしゃいました。それぞれに思いで深い方々がです。その方々はまた別の機会にご紹介させて頂きます。  謹んでご冥福をお祈りいたします。



兵庫県南部地震  明石市 守田馨子  


私の最近の一番大きな出来事は平成七年一月十七日の兵庫県南部自身の体験です。ぜんやの夕食の後家族で雑談しているとき、主人が「地震!」と言いました。明石は地震と津波のない所と信じていた私は「猫が廂の上を走ったんでしょう」と気にもしませんでした。  翌朝、地震が発生した時刻、私は狭い台所のガス台の前に立っていました。体を宙に放りあげられるような衝撃を受けた時、昨夜の主人の言葉をハッと思い出してガスを止め、ガス台の前を離れました。後気がついたのですが食器とだなの上部が倒れて落ちたので、あのままガス台に前に居たら後頭部を直撃されていたことでしょう。命を失っていたかも知れません。夜が白々と明けて周りを見まわすと傾いた家、瓦の落ちた家、壊れたブロックの塀、落ちて破れたガラスなど現実の世界とは思えない光景でした。地震の直後建っていたお隣も、裏のお宅も一ヶ月ほどの間に取り壊されました。私共は棟瓦がくずれた程度で驚くほど被害が少なかったのです。私は中津峰の観音様のお陰だと思いました。  電話もパニック状態でほとんど通じませんでした。そんな中「やっとかかりました」とご住職様からお電話頂きました。日頃親しくして頂いている方々から、エッずいぶんご無沙汰しているのに・・・と恐縮するような方々までたくさんのお電話を頂きました。何度もダイアルして下さったのだろうと思うと有り難さ胸一杯の毎日でした。  七月になっても高速道路は普通でした。実家の兄が高野山への墓参りが出来ないので中津峰のご住職様に拝んで頂こうと申しますので中津峰さんへ参りました。その時兄はご住職様といろいろお話してお人柄に感銘を受けたのでしょう。車で山を下りながら「今から引き返してお会いしたいという感じがする。偉い方だと申しておりました。そして昨年のお正月からは「僕も自分でお詣りするから」と私共に代参させなくなりました。私共もお観音様のお陰で生かされているしあわせを感じながら暮らしております。あらためてあの震災でなくなられた方のご冥福をお祈りします。



 

短歌 中津峰山如意輪寺にて  佐藤 僖助


のぼりゆく自動車の道にきれぎれの古き山路のゐる見ゆ

観音のみ山みどりにおほわれてうぐいすのこゑ溢れ出てくる

喜々として胎内くぐりなどしたる思ひはるけし観音の道

老杉に掘りこまれたる仏像の眉目おぼろなりけり七十路を経て

観音のみ堂いづこに坐るともみ眼はわれらにそそがれてゐる

観音の堂のかたわら朴の木の秋は落葉小鳥のごとく

観音をめざし山路を蟻のごとのぼりゆきたる学童に日々

観音のお山の路は十八丁八十丁路となりてわすることなし

観音のみ山ながめて育ちたるわが母なりき亡き母こひし

観音のみ山に雪の見ゆる日はさむしと母の口ぐせなりき



石橋 輝雄 幸恵


手も口も清む涼しき閼伽の水

梵鐘の音通りくる夏木立

御僧の話を消して蝉時雨

名刹のひっそりとあり日の盛り

本堂を包むが如く夏木立

どこまでも石段ありぬ秋暑し

蜩や親子交互に鐘鳴らす

手を清め心を清む清水かな

緑陰に染まり在しぬ菩薩像

この寺に祈り重ねてお盆来し



元気な現役の方々 山田戒乘


橋本育さん 現役の月参りの方で記録がはっきりしていて、かつ一ヶ月も欠かさずお詣りされている方が橋本さん。私と同年の長男、博さんがお腹にいるときからの月参り五十五年になる。小さいときの記憶では家族で参拝されていた。博さんも月参りは同じとなるのかも知れない。今はお袋さんが言うように好きなだけお参れさせてあげるというようだ。 細川頼春さん 平成六年大黒天奉祀三百周年記念のとき、ちょうど月参り五十年にあたった。毎月一日に必ずお詣りになる。といっても五十年間そうではなかったが、もう三十年は続けている。一時は多くの仲間がいて、私もおよばれして新年会、忘年会とやっていたが今は奥様、息子さんといったご家族での参拝である。また復活してほしいものだ。 浅田マサコさん グループの方々と小型マイクロバスをしたて月参り、なかには九十六歳の現役の方もいる。だが、車はほんの数年前からのこと旧道を最後まで歩いた数少ない方でもある。いつでもどこでも下駄をはいて行動するいま一番ナウイおねえさん(昔)だ。現役月参りのランキングではひょっとするとトップか二位に浮上するかも知れない。とにかく戦前から月参りというのだけははっきりしている。 Aさん あえて匿名にする理由は本誌二百号の投稿依頼をしたところ「もう数年で五十年になる。そのとき元気でいて投稿する」というご返事を頂いた。車でお詣りを始めた最初の方。三人のメンバーも代わらない。どうかお元気で五十周年を迎えられんことお祈りします。 福永キミさん この方も物心ついたときからの月参り五十年組である。昔は例にもれず歩いてであったが、数年前から仲間とタクシーにかわった。グループの中には最後まで歩いていた方がいる。というより仲間があれば歩いたほうがおられるやも知れぬ。 荒木カツエさん 八月二十八日夜、荒木カツエさんから電話。 「本日、九十歳になりました。これからもよろしく」と。カツエさんは本誌に何度か紹介した小松島、元根井の観音さんの堂守をしてくれている方で、一昨年肺炎で危篤になったのに観音さまにたすけられたという方である。「これからは以前と一緒にいかんかもしれんけど、一生懸命観音様に勤めさせていただきます」と。  



つれづれなるままに   応仁町 樫原 巌


 終戦後、カストリ紙、カストリ雑誌というのがあり二号(二合)か三号(三合)でつぶれたものをいいます。それにしても二百号間で続けられたのは戒乗師の教養、情報収集力、行動力、信者に対する責任感等々の総合力であると思います。私は途中から拝読させていただいておりますが、百五十号位の時一号から読んでみたくなり、師に「あれ面白いので本にしてくれへんで」と申し出たところ「本にするのはたいへんな労力がいるんでよ」というやりとりがあったのを覚えています。あれから二百号改めて月日の流れの速さを感じます。  その間、私を含め家庭内ではいろいろな出来事がありました。中津峰さん(家族ではそう呼んでいます)は信者寺のため色々な職業方々が参詣されています。言い換えれば情報の集まる場所でもあります。六、七年前家内が参詣したとき、高名なお医者様の奥様から「妙ちゃん、健康診断に来なよ」と声をかけられました。その機会に診断を受けたところ、心臓に異常を発見していただきました。先生の紹介で小松島日赤で手術を受け、一命を取り留め、今は元気で参詣しております。もしもあのとき、お詣りしていなかったら「今ごろはあの世じゃなあ」とことある毎にその話が出ます。しみじみ仏縁のありがたさを実感しております。難病の経験者、現在治療中の方々の体験を聞くにつけ、にわか信者ですが、中津峰さんて「ええところやな」という感じがします。  再び 『朝念暮念』にもどりますが、一九九号の「三度の驚き」の記事のなかで「要するに異常な犯罪は本人が異常だから成し得る」とは私も同感でまた、ついつい最後まで読まされてしまいました。  最後に戒乗師へのお願いを一つ、二十一世紀は少子、高齢化社会です。中津峰山如意輪寺を中心に子供たちの健全な育成の場と高齢者の信仰と憩いの場を提供していただき、徳島の教育と福祉の発信基地となるようお骨折りをいただきたいと思います。また、益々健康を振るわれ、三百号、五百号と記録を伸ばして下さい。そして区切りの良いところで纏めて出版をお願いします。



結婚して 山田文美  


結婚してはや三ヶ月、ほんの少しずつですが、山の生活にも慣れてきました。初めて来た時のことを今振り返ってみますと、想像していた以上に、人里離れた高い山の上で、登っても、登っても、まだたどり着かないという印象でした。  正直言ってその時は、言葉にならない複雑な思いで帰ったことを覚えています。  結婚してみますと、家族のおかげもあり、とても居心地がよく、もう長くここに住んでいるような錯覚さえしています。ここはたまに来るより、ずっといるほうが、その良さのわかるところです。昼間は、のんびりした鐘の音がリラックスさせてくれますし。また、夜はとても涼しく、静かすぎるほど静かですので、じっくりと読書を楽しむには最適といえます。(冬になるとどううでしょうか?それはまだわかりませんが)  今まで、お寺とは全く違った環境に育ちましたので、見るもの聞くもの初めてのことばかりで、これから勉強しなければならないことが山積みです。何とか早く如意輪寺の一員になれるよう頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。



編集後記


 八月はじめから本格的に投稿依頼をしたところ、かくもたくさんの玉稿を頂き「みんなでかざる二百号」ができました。武市奉賛会長の仰るとおりの双方向のメディアができあがりました。感謝とお礼を申し上げます。今あらためて一号近辺から百号、その間と並べてみました。画面だけは格段の進歩をしております。  しかし、二百号までの数部はよく編集できたなというもの、逆に赤面するものもあります。  徹龍師との会話のなかで「ひょうたんから出た駒」のような存在の本誌も二百号を重ねるとやや重みをつけてまいりました。今度は三百号へ向かって当初の双方向メディアという基本方針を忘れないように一同精進したいと思います。今後とも宜しくご愛読のほどを。