第198号


野次馬的香港論

 七月一日、香港が中華人民共和国に返還された。野次馬的私の見地から香港論を試る。
まず、我々教科書で九十九年の借地と習った。返還になって一八四二年アヘン戦争後、南京条約で香港島を、六六年アロ−号事件後の北京条約で九竜島南端をともに「永久割譲」その後九八年(明治三十年)中英が「香港地域拡張に関する条約」新界地区を九十九年の租借地とした。十%に満たない土地とはいえ英国の領土もあったとは全く無知であった。
昭和十六年十二月八日啓徳空港を爆撃、二十五日、六百八十三人の尊い犠牲者をだして、白人支配から解放したのは日本軍であった。太平洋戦争を単に侵略というが大東亜共栄圏を夢見た植民地を解放戦争の側面もあった。その後三年半にわたって日本人が統治し、一般教育の普及等に足跡を残した。昭和二十年日本が無条件降伏し、香港でも武装解除が行われることになった。相手は国民党の中華民国(以下台湾)共産党の中華人民共和国(以下北京)英国が狙ったが、いろいろあって結局英国が再び統治することになった。
 植民地とは、強国が伝統も人種も違う国を支配して「いいとこ取り」の形態といえよう。プロテスタントの一派、英国がヒンズ−教の国インドを、カトリック国ポルトガルが回教国インドネシアをという風にである。一国二制度とかっこいいことを言う北京であるが、この論法で行くと宗主国が英国から中華人民共和国に代わっただけとはいえまいか。
 借金を返すのは証文をもったものに返す。南京、北京条約の原本は台湾にある。北京が孫文の革命政府の正嫡とするのは孫文婦人の宋美麗がいるからだ。勿論、中国全土を支配しているからではあるが。また、人民解放軍というのは中国の国軍ではない。中国共産党を守る軍である。天安門では人民に銃口を向けたことでも証明される。その軍が返還と同時に進駐した。この軍をバックとしてどのように統治されるのであろうか。五十年はこの制度を変えないという。が、ビルなど不動産の耐用年数はだいたい五十年、次の建て替えは考えられない年月である。 
 返還式典での中国語は北京語(共通語)で行われた。が、香港は英語と広東語で教育されていた。北京語と広東語や福建語は英語とフランス語以上にかけ離れているという。
 返還がうまくいくと北京の中国は発展し、つぎは台湾もこの方向で統一しようとするだろう。まさに世界史上最大の国家が成立する。
 逆の場合、北京より香港の方が法律制度、経済制度を充実している。下手にいじると今の中華人民共和国そのものが分裂崩壊につなぎかねない。
 日本人はどちらを望むか考えてみよう。 


何でもありのチベット行(2)

奥地から帰ったラサは何となく懐かしさをおぼえる。蔵病院を見学した後、ホテルへかえると現地の旅行会社の社長がバスが故障したことへのお詫びにくる「今夜チベット舞踊にご招待したいがいかがか」「ぜひ」全員でいくことになった。日本流に言えば公民館といった建物の立派な舞台に招待された。
 チベット人といっても色々な民族がいる。いくつかのグル−プが入れ替わって民謡を見せてくれる。衣装はギャンチェのホテルで見ているが、それが実際に踊りだすと楽しくなる。山岳地のチベットでは声を張り上げて向こうの峰々に聞こえなければならない。歌い手は日本の民謡的発声法で相当の声量だ。全体的には間延びしたメロディではあるが、打楽器のリズムがすごい。太鼓に我々の法会に使う鉢もここでは鳴りっぱなし。縫いぐるみのヤク、羊という動物も登場してきた。動物達は西洋の闘牛のような殺されるのではなく、共存或いは神格化された存在だ。最後に全員舞台に上がれと言う。楽しく踊ってお開き。明日はチベットにお別れだ。その寂しさを荷作りで忘れさせ就寝。
 朝、六時に起床、クンガ空港へドギュメンタリ本「逃」の主人公、ユン君が描いたという空港ロビ−の絵を見る。添乗員の大嶋さんが面白いことを言い出した「この飛行機に偉い人が乗っているから、サムエ寺の付近を低く飛んでもらう」と「ほんまかいな」
 離陸後五分サムエ寺が眼下に見える。ヒマラヤとは反対の方向なのだが氷河を抱えた大きな山々が次々に見えてきた。やがて全く人の住んでいない荒涼たる平原を延々と流れる長江上空をしばらく飛んだ。
 「地球の屋根」「大自然の原風景」「薄い空気」「生き生きした民衆」「これでもかこれでもかという仏像群」「それでいて世界の恥部とでもいう支配者と被支配者の葛藤」「まだ問題にはならぬがゴミ問題」等々、十日間を思いだしつつ成都に向かった。




◎還暦を迎え、報恩謝徳のため
   一金十万円也 羽ノ浦町 国見昌史様余録


 九月号で本誌二〇〇号を数えます。記念号としますので霊験記、思い出等々何でも結構です。読者の皆さまの投稿をお願いします。