第195号

 


   

西国二十八番札所天橋立、成相寺長老石坪哲眞大和尚は真言宗の最長老。昨年十月遷化、三月末に本葬がおこなわれた。現住職の昭眞僧正との縁で参列させて頂いた。その時の追悼の言葉の幾つかを紹介しょう。

大和尚は明治、大正、昭和、平成の四時代を生き、あと二ヶ月で百歳であった。戦時中国家総動員法によって合併した合同真言宗は東京に本部があった。その部長時代に東京大空襲にあい、和尚は戦争犠牲者を一人々々拝んで供養されたという。その後、高野山真言宗等々重要な役職歴は枚挙にいとまない。

今では考えられないが、戦後の成相寺無住で屋根は朽ち、伽藍・堂宇は荒廃していた。雨の日はお堂の中で傘をさしての勤行だった。

和尚はまず屋根の屋根の葺き替えから始め、高野山から檜皮と職人が来た。当時はまだケーブルが復活されていない。檀家の人々の労力奉仕で檜皮を担ぎあげた。檜皮職人は来たものの、当時まだ食料が充分でない。貧しい食事に高いところでの重労働、ある日のお昼に団子汁のみがでた。職人衆は食い物の怨みその極に達し、和尚はもっと良いものを食べているだろうと和尚のもとへ一同が抗議にいった。ところが和尚も職人と同じ団子汁のみ。職人衆はそれから一切食べものの文句を言わず、檀家の人々と心を合わせ見事完成した。

昭和四十年頃になると戦争で子供や夫を失ったご婦人方が歳をよせはじめた。和尚は国家のために子供や夫を失った人々を黙って見過ごすことはできないと時代に先駆けて成相寺青嵐荘という老人ホームを創設した。

葬儀委員長は政界の長老、元衆議院議長の原健三郎氏。氏は淡路の出身、選挙区と関係ない。昭和三十三年はじめて夫婦で成相寺にお詣りしたとき、箒を持った和尚と一参詣者が出会い、先の荒れ寺の話、それをいかにして復興するかの夢多き話を聴き、荒廃した日本をいかに復興するかを思う氏と相通ずるものがあったという。衆議院議長の末期、野党との関係がこじれ議長を辞任した。政治生命をうかがうかのような虚脱感にさいなまれていたとき、和尚から「お山にお出で・・」と電話があった。参詣すると和尚から手打ちのそば等々をふるまわれ、その味が忘れられないという、氏は今味わっているかのように一つ一ついうが、豪華なものは何もない。

天下の三権の長にも一介の信者にも、苦悩を持つものに、かかる声をかけられ、心の安らぎを与られる和尚は観音様そのもの。私も範としていきたいと思う昨今である。


 

何でもありのチベット行

ギャンチェは英領インド軍がヒマラヤを越えて攻め込んだ町。近代装備の英領軍にチベット軍は火縄銃で戦った。その後の英蔵の条約でここに貿易市場を作らされて発展した。標高は四千米余、ラサでなれたと思う身体だがバスを降りて座り込んでしまうものもいる。因みにこことシガチェのホテルではビールを飲み放題。が、一本を数人でちょうどよい。

町は白居寺の城下町とギャンチェ城がある。寺は立体曼荼羅の塔(パンコル・チョルテン)と山上と下の伽藍からなる。古派と新派が仲良く研鑽し合っている寺という。

前日遅くついたため一時間早く開けてもらう。山の上の伽藍はお詣りせず塔に入る。事前に松長先生から塔の仏様の配置図を頂き、一同は自分の縁のある仏様を中心に拝観する。でないと高さ三十七米、九層に十万体ともいわれる仏像、仏画群がある塔の拝観を半日では不可能。私は観音様とマハーカーラ(大黒様)に中心にした。とはいえ図面に合わせて、上へ上へと巡拝していくと人間の魂がしだいに高揚して、やがて仏様の位に昇るようになっている。十万体ともいう仏像群に酔いながら五層まで昇った。今までのオーソドックスな寂静尊と全然違う。すばらしい忿怒尊だ。興奮してカメラのシャッターに集中する。頭と頭ががぶつかりそうになった。松長先生である。何にも知らない私は「すばらしいですね」「私も五層以上ははじめてだ」と。普段は四層までしか昇らせてくれない。今日は日本から偉い坊さんが来たから最上層の九層までよろしい。五層は壁画のみ、所謂合体物ばかりである。それなるが故に興奮したのではない。実にすばらしい壁画故にである。絵を見てこんなに感激したのは久しぶりだ。

九層から眺める平野は今満開の油菜の花が黄色い絨毯を敷き詰めた如く、短い夏を飾る。


 

   

日本の大学入試が終わって、スオミ大学の出番となった。現在大卒一人、現役二人が決まっている。五月中旬までなら手続き可能。県外の大学の枠をアメリカまで広げてはいかがだろうか。学資は円安とはいえ、東京方面の大学へ行くのと変わらない。昨年からリハビリ学科、デザイン学科ができた。前者は今のところあちらで免許を取得すれば厚生省の認定だけで国家試験免除である。この学科を国内同種学校の授業料と比較すると面白い。浪人希望の諸君、一度私の話を聞いてみては。