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お知らせ

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[ 松長有慶先生検校法印へ ]
2月22日、住職の恩師松長有慶先生が高野山第503世検校法印に昇進されました。高野山では弘法大師の身代わりとして一年間修行されるたいへんな役目です。22日は昇進式があり、管長猊下より辞令と緋の衣が交付され、続いて第502世の法印様から弘法大師以来面々と伝わる法具を伝えられて法印様になられました。
3月12日には法印転衣式が行われます。転衣とは今までの黒い衣から法印様だけに許される緋の衣に替える儀式です。
2002/02/26(火) 晴れ


 
今日17日昼から雨この雨はたいしたことなさそうだ。これから雨の降るごとに春めいてくる。一昨日来たウグイスは今日声が聞こえない。天気が悪いので鳴く気もしないのかも。
2002/02/17(日) 晴れ


 
今朝初めてウグイスの声を聞きました。まだまだへたくそでホーホケキョとはなりません。が、寒さの中に春の装いを見つけました。
 さて今日、2月15日は涅槃会です。本来は旧に行うものです。
八十歳を超えた釈尊は生まれ故郷のカピラ城の方向に向かって布教の旅を続けておられました。14日鍛冶職、チュンダの家で昼食に出された、栴檀の茸で食中毒を起こしクシナガラの沙羅双樹の根元で永遠の覚りに達せられました。このことから涅槃会のことを常楽会といいます。
 さて、常楽会はお釈迦様の遺徳を語って聞かせるため、先ず涅槃図を飾ります。それは生きとし生けるものがお釈迦様の遺徳をしたって泣いております。この図、我々佛教徒は当たり前ですが、西洋キリスト教社会では聖フランシスの小鳥の説法しか見あたりません。東洋の自然或いは宇宙と共生するという思想の現れでありましょう。
 法会は語り物の原形である涅槃講式で代表される講式とそれを讃嘆する伽陀、和讃でけいせいされます。高野山では十四日の夜から徹夜で涅槃講、羅漢講、遺跡講、舎利講の四座講が行われます。
この講式は百年後、平曲(平家物語等)に影響をおよぼし、謡曲、浄瑠璃、浪花節、演歌という日本の歌謡の系譜になります。
 我々結衆では午後方上町神光寺で行われます。当山は昨日より二百四十五年前の宝暦七年の涅槃図を荘厳して礼拝しております。
2002/02/15(金) 晴れ


 
6日には予定通り美和町から来山されました。両者今まで交流がなかったのが不思議だと言うことで一致しました。
 先方の鉄地蔵さんはお持ちになっていたのではなく、立てかけてあっととの説が優位だそうです。そういうお地蔵様はたくさんあります。次に鉄地蔵とは金という意味の鉄ではなく、本当の鉄製のようです。当山の錫杖と材質は異なると思います。この場合も木彫に金ものの錫杖、石像に金ものの錫杖、錫杖だけ彩色、或いは金メッキ等々の事例があります。これだけ大事な戦陣錫杖、ロマンはますばかり。

2002/02/08(金) 晴れ


 
明日(6日)愛知県海部郡美和町から当山に伝わる戦陣錫杖を視察に来ます。それは美和町中橋、法蔵寺の以下の寺伝の確認のためです350年余り、再会したことのない、お地蔵さん錫杖ぜひ再会させてあげたいものです。少々長いですが読んでください。
法蔵寺寺伝
 小六ゆかりの鉄地蔵  法蔵寺の寺伝によると、小六が桶狭間の合戦に出陣の折、戦勝をい祈願して蓮華寺に奉安されていた鉄地蔵を持参することとしたが、鉄の重みで容易には動かせず、中橋の地に安置し、そのかわり鉄地蔵の錫杖のみを持参して出陣し大勝した。 時代は移り、江戸の世となってからも、錫杖を槍先のしるしとし、参勤の道中でも城主の乗り物の前へ錫杖槍を立たせ、人々はそれを阿波の錫杖槍とよんだという。その錫杖は現在でも徳島に存在する。 一方、残された地蔵もその後、その場所が地蔵畑とよばれ、法蔵寺が建立されるやそのご本尊として信仰が厚かったという。また小六ゆかりのその本尊は鎌倉時代に作られたもので、現在では国の重要文化財の指定を受けている。

2002/02/05(火) 晴れ


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[ 管理者:中津峰山如意輪寺 ]


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